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若い頃の私が西島 大ととくに縁が深かったのだが、それには理由がある。

文学上の 師弟関係というものは、はた目から見るほど単純なものではない。師匠にすれば、たいして才能に恵まれていない、どうしようもない弟子を見て、不甲斐ないと思うこともあるだろう。逆に、弟子が鬱勃たる野心に燃えているような場合に、師匠として弟子をうとましく思うこともあるだろう。
私は、内村さんが期待していたほどの才能がなかった。はっきりいって、内村さんのお書きになる芝居に関心がなかった。私は、ある時期まで小林 秀雄を相手に悪戦苦闘していたし、やがて、ヴァレリーやジッドから離れて、ヘミングウェイに夢中になった。
だから、戯曲を書くよりも、別の、違った分野をめざしたため、まるっきり内村先生の期待を裏切ったのだった。
私とは違った意味で、内村さんの後輩だった梅田 晴夫も、やはり先生の期待を裏切ったひとりではなかったか。

私は内村先生の連続ドラマ、「えり子とともに」のライターのひとりだった。日本で最初のアメリカン・スタイルのホームドラマで、これが成功すれば、長期間にわたって放送がロングランする。当時、内村先生は40代だったので、50代だった伊賀山 昌三、30代だった梅田 晴夫、20代だった私が脚本を書いたり、アィディアを出すグループに加わったのだった。
「えり子とともに」は、1949年10月にはじまって、127回の連続ドラマになった。(フィナーレは、1953年4月)。
なにしろ長いドラマになったため、途中で、音楽の担当が芥川 也寸志から中田 喜直に交代した。これが実質的に、ドラマの前半と後半の変わり目になったが、西島君は後半から、内村先生の原稿の口述を筆記することになった。

当時、私と西島 大は、毎月、内村先生からポケットマネーを頂戴していた。
私はそれを学資にして、母校の英米文学科に戻ってアメリカ文学を勉強したが、フランス語を勉強するように申しわたされた西島君は、「お給料」をみんな飲んでしまった。
たまに、ふたりとも懐が暖かかったとき、いっしょに酒を飲んだあげく、吉原にくり込んで、翌朝、近所の一膳飯屋でお茶漬けを食らって、そのままに千葉の浜辺まで足をのばしたこともある。
このとき、たまたま浜辺で釣りをしていた竹田 博(編集者)と会った縁から、私は坂本 一亀と親しくなった。その後、「河出書房」でいろいろと仕事をしてきたが、今となっては、私にとっては、ありがたい出会いだったと思う。
やがて、私は「東宝」にいた友人、椎野 英之に西島 大を紹介した。「東宝」では西島といっしょにシナリオを書くようになった。
最近、「アバター」という映画が公開されて、3次元映画がさかんに作られるようになったが、私たちが「東宝」でシナリオを書きはじめた時期に、はじめて3次元映画が登場した。私たちも、3次元映画のためのシノプシスを提出したものだった。むろん、この時期の「東宝」では、一本、試作品ができただけでまともな成果は出せなかったのだが。
しかし、西島 大は、戦後、沈黙していた熊谷 久虎(映画監督)のために「狼煙は上海にあがる」を書いて、シナリオ作家としての道を歩きはじめた。
私は才能がなくてシナリオを断念したが、西島はつぎつぎにすぐれた脚本を書くようになった。このとき、いっしょだった仲間が、矢代 静一、八木 柊一郎、池田 一朗である。矢代も、八木も、はじめからシナリオ作家を志望したわけではなかった。後年、ふたりとも劇作家として大成する。池田 一朗は、後年、隆 慶一郎として一斉を風靡する時代ものの作家になる。

人と人の出会いの不思議を思う。そして、この時期が、私や西島にとってまさしく青春というものではなかったか、という思いがある。