ファドの歌い手といえば、ドゥルス・ポンテスを思い出す。
久しぶりに音楽を聴きはじめたとき、まっさきにドゥルス・ポンテスを聞いた。
ドゥルス・ポンテスの「海の歌」は、ファドの大先輩のアマリア・ロドリゲスが「孤独」という題で歌っている。アマリアの歌には、いたましいほどの孤独感がみなぎっているのだが、ドゥルスの歌には、おなじ孤独でも、なぜか華やいだ、イベリアの女のあまやかな感じがある。
ある日 ファドはうまれた
風が ほとんどなくて
空が 海のつづきのような日
海に出た帆舟の 舟べりで
舟乗りの 胸のなかにうまれた
かなしい 歌をうたいながら
アマリアとドゥルスを比較するわけではない。だからアマリアとドゥルスのどちらがいいなどという問題ではない。ただし、おなじファドでもアマリアとドゥルス、それぞれの芸術家の資質、悲劇性、肉感性、大げさにいえば運命の違いのようなものを感じてしまう。うまくいえないけれど。
ドゥルスでは、「オス・インディオス・ダ・メイア・ペライア」のような明るい歌もいい。この歌を聞いていると、やがて、「エストイ・アキ」のシャキーラが重なってくる。アメリカで大ブレイクする以前の、みずみずしい、まだ無名のシャキーラだが。
いまの私は、アメリカのシャキーラを聞かない。ドゥルスは聴く。
「涙」のなかで、ドゥルスは「あなたがこんなに好き この思いは 絶望」という。
私を絶望させるのは
私の内部の
私を責め さいなむこの罰
あなたが きらいなのよ
私はいいきかせる あなたがきらい と
そして 夜に
あなたの夢を見るのよ 夜には
ドゥルスを聴くと、たちまちドゥルスの歌の華やぎ、あまやかな感じがからみついてくる。私は他人にはいえない、つらすぎる思い出のように、ドゥルスを聴く。ドゥルスを聴くこと、私には悲しみを聴くことなのだ。
「運命のファド」Fado Da Sina のなかで、
逃げられやしないさ
過酷で 暗い 宿命から
おまえの 不吉な 運命からは
邪悪な星が支配しているからさ
と、ドゥルスはいう。
いつかまた、ドゥルスを聞き直すだろう。
注 ドゥルスは「ラグリマス」(東京エムプラス)
シャキーラは「PIES DESCALZOS」(SONY)