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食料は肉から魚まで、闇市でなんでも買えたが、その前に金がなかった。
私は7月まで、学生の勤労動員で、川崎の軍需工場で働いていたが、日給は2円だった。(おなじ工場に動員されていた、九州の小学生たちは、日給、1円。)
戦争が終わってすぐにインフレーションが起きたので比較にならないのだが、敗戦直後の父の給料が300円程度だったから、闇市の食べ物が私にとって高価だったことは間違いない。

とにかく飢えていた。
食料といっても、私たちの口に入るものは、ほとんどサツマイモだけだった。戦時中に、食料増産のために「農林1号」、「農林5号」という品種が作られたが、これが、ただ図体ばかり大きくて、水っぼい、まずいものだった。これを五切れぐらいに切ったものが、5円。ミカン、10個で10円。カキ、3個で10円。

オニギリ、3個で10円。大きなセイロで蒸した蒸しパン、1個で5円。

敗戦直後の関西は、台風に教われて、甚大な被害をうけた。戦災で大きな被害をうけた大阪は大洪水にやられる。床上浸水、4万4994戸、床下浸水、1万490戸、被災者は15万9千人あまり。
アメリカ軍が上陸してわずか1週間後のことだったので、関東の私たちは、関西の被害の大きさに気がつかなかった。むろん、気がついたところで、どうしようもなかったのだが。

そして、冬がやってきた。
暖房などあるはずもなかった。そこで、電熱器で暖をとるようになった。ところが、電気の配給が少ないので、すぐにヒューズがとんだ。変圧器が焼けて、たちまち停電する。
敗戦で、電力の制限は解除されたが、実際にはひどい電力不足がつづいた。
さらには水不足、燃料不足という非常事態が重なって、国民の生活に敗戦の重圧がひしひしとのしかかってくる。
電力不足は、翌21年(1946年)になっても好転せず、一日おきに、午前5時から午後5時まで停電といった悲惨な事態になった。こうなると、夜、本を読む時間もかぎられてくる。

昭和22年(1947年)になって、一般家庭には、4日に一度の送電、夜間も夕方から2時間しか電気がつかないような悲惨な毎日がつづく。
銭湯も連日休業で、なかには薪持参でないと入れないという張り紙を出したところもあった。それでも、銭湯には昼間から人々がつめかけて、それこそイモを洗うような騒ぎだった。
カランから出すお湯も、めいめいが持参する洗面器に2杯といった制限をつけられた。入浴もままならない日常なので、どうしても不潔になる。栄養失調のところに、ノミ、シラミ、ダニがひろがって、悪質な疥癬が流行した。かゆみがひどいので、この皮膚病はカイカイムシと呼ばれた。
アメリカ占領軍が、日本人の頭からDDTを散布して、この流行は、ようやく沈静化したが、当時はだれひとり薬害など考えもしなかった。