終戦直後に、浅草で思いがけず、G・W・パプストの映画、「喜びなき街」を見たあたりから、私の「戦後」がはじまっている。
もっと切実だったことどもは――もはやほとんど薄明の彼方に沈んでいる。あの頃のひどい貧困や飢えさえも、もはや思い出せなくなっているらしい。
私の「戦後」は、まず、食べることからはじまった。一方で、戦争継続を訴えて、海軍航空隊の戦闘機が超低空飛行で、ビラをまいていたとき、わが家の米ビツは空だった。配給も停止したからだった。
いつ配給があるのかわからない。そんなものをアテにしていたら、餓死することは目に見えている。
栃木県に疎開していた母は、我が家に戻ってきたとき、わずかながら食料を仕入れてきたが、そんなもので間にあうはずもなかった。母は疎開しておいた自分の和服などを売り払って食料に交換しようと考えた。
こういうときの母の行動力はたいへんなもので、どこに行けば食料があるのか、猟犬のように嗅ぎつけて、その日のその日の食料を確保してくるのだった。
むろん、苦心惨憺、やっと買い込んできた食料は、母の努力に比較しておそろしくみじめで貧しいものだったが。
母は毎日焼跡を歩いた。三月十日の空襲に母は、猛火の迫るなかで、ミシンの頭を外して、毛布にくるんでもち出していた。むろん、それだけでは遣いものにならない。
戦後すぐの焼跡で、焼けただれたミシンの足を見つけてきた。それを洗って、自分で組み立てた。
つぎにどこかから木綿の生地を仕入れてきて、手製のワイシャツを作りはじめた。
母は和裁、洋裁、どちらも得意で、ワイシャツを何枚も作った。
「耕ちゃん、ここからここまでミシンをかけといて」
私は母に教えられた通り、ミシンを踏んだ。
とにかく生きるために、何でもしなければならなかった。
できあがったワイシャツはきちんと畳んで、母がすぐに闇市にもって行く。手製のワイシャツでも、りっぱな新品で通用した。
その代金で、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを買ってくるのだった。