フランスの芝居で、私たちがすぐに思い浮かべるのはコメデイ・フランセーズだろう。モリエールの劇団が旅から旅に巡業をつづけたことはよく知られているが、一六七三年、劇作家で俳優のモリエールが亡くなったあと、残された劇団は、ルイ十四世の勅命によって一六八〇年、これも王立のブルゴーニュ劇団と合同した。
ルイ十四世はこの劇団にパリにおける独占上演権を許し、俳優に年金をあたえる特権をあたえた。この新劇団は、ラシーヌ、コルネイユ、モリエールをはじめ古典の上演を使命とすることになった。一七七一年から八〇年代にかけて、パリの劇場はテアトル・フランセ、テアトル・イタリアン、テアトル・ド・ロペラ(オペラ座)が、ほんらいのフランス演劇(コメデイ・フランセーズ)である。(現在でも、コメデイ・フランセーズは「モリエールの家」と呼ばれている。)
ところで、コメデイ・フランセーズの成立ととかかわりなく民衆はエンターティンメントをもとめていた。パリでは縁日の市場に掛け小屋で喜劇を演じるような芝居者が多数あらわれる。一七五九年から、パリ市内、北東にあたるブールヴァール・デュ・タンプル(寺院通り)には常設の芝居小屋が並ぶようになった。サン・ジェルマンや、サン・ローンの修道院では、二ヵ月のロングラン興行さえめずらしくなくなる。ブールヴァール(大通り)芝居とよばれるものの濫觴(ルビ らんしょう)である。
こうした劇場でとりあげるレパートリーは、パリ市民の好みにあわせた、ひどく猥雑な笑劇、見世物、パントマイムによる夢幻劇、犯罪劇ばかりだったが、いきいきとした民衆のエネルギーにささえられていた。この通りに集まってくる連中のなかには、よからぬ風態のもの、ヤクザや娼婦たち、スリ、強盗なども多く、寺院通りはブールヴァール・デュ・クリム(犯罪通り)と呼ばれるようになった。
ただし、犯罪者が集まってきたために犯罪通りと呼ばれたわけではなく、当時、「メロドラム」と呼ばれた勧善懲悪のお涙頂戴もののサスペンスで、ドラマの山場にきまって殺人シーンが出てきたためという。これは、のちのロマン主義の演劇運動に通底している。こうした雰囲気は、後年の映画「天井桟敷の人々」(1944年/マルセル・カルネ監督)に描かれている。あの映画に登場するフレデリック・ルメートルは、実在の名優で、まさにロマン派とメロドラムのヒーローとして生きた。もうひとりのジャン・バティストは、マイムの名優として、フランスの俳優術の洗練を代表していた。
絶対王制の下で演劇活動をつづけてきたコメデイ・フランセーズは、一七八九年のフランス革命によって、特権的な地位を失った。革命の人権宣言で、劇場を開設する権利は万人のものと認められて、劇場が都市の周辺に出現する。一七九八年、コメデイ・フランセーズは再建されたが、名優、タルマと保守派の対立、俳優たちの内紛がつづいたり、火災にあったり存続もあやうい受難の時代をむかえる。
一八一二年、遠くモスクワに遠征したナポレオンの勅令によって、コメデイ・フランセーズの機構がきめられて現在までの大まかな基礎が作られ、一八五〇年にはコメデイ・フランセーズを総括する支配人という制度が発足した。これも、第二帝政の時代の大きな演劇改良の動きによるもので、ブールヴァールがフランス演劇に大きな影響をあたえていたからだった。こうして、名女優ラシェルからサラ・ベルナール、名優フリダリクスからムネ・シュリー、リュシアン・ギトリの時代に移ってゆく。