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つい先日、私は書いたのだった。知人たちがつぎつきに鬼籍に入ってゆく、と。
女流作家、宇尾 房子さんが、昨年10月13日にガンで亡くなった、という。
最近まで知らなかったので、訃報に驚いた。

つづいて劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞記事で知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4,)
ただ、宇尾さんの訃を知ったばかりだったので、眩暈のようなものにおそわれた。

西島 大。本名、西嶋 大(ひろし)。友人たちは「ダイ」と呼んでいた。

3月3日、肝細胞ガンで死去。82歳。1954年、「青年座」創立メンバーのひとり。「昭和の子供」、「神々の死」などの戯曲のほか、映画、「嵐をよぶ男」や、テレビで「Gメン’75」の脚本をてがけた。

私は、まだ無名の西島が、内村 直也先生の口述を筆記していた頃に、先生に紹介されて親しくなった。
その頃、内村先生の周囲に集まっていたグループが、「フィガロ」という戯曲専門の同人雑誌を出すようになって、私も戯曲を書くようにいわれたのだが、戯曲を書くかわりにカットを描いたりした。
この「フィガロ」に、西島 大の処女作『光と風と夢』が発表された。ある小さなホールで、内村先生演出で上演されて、西島君の出世作になった。
内村先生も私に劇作を書くよう勧めてくださったが、私自身は演出を志望していたので、内村先生の期待を裏切ることになった。
それでも西島 大のおかげで、おなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと親しくなった。そのグループの近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はさらに桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。
私がはじめて演出したのは、青年座の芝居で西島 大の『メドゥサの首』という一幕ものだった。そのつぎも西島 大の『刻まれた像』だったから、当時の西島君とはよほど縁が深かったような気がする。
あえていえば、私は西島 大といっしょに青春の一時期を過ごした、という思いがある。とにかく、毎日のように会っていたのだった。

やがて、私は生活のために翻訳の仕事を中心にしなければならなくなって、「青年座」を離れた。私としては、外国の戯曲、それもアメリカの芝居を演出したかったのだが、創作劇を専門に上演していた「青年座」にいても演出できる状況がなかった。それに千葉に住むようになって、渋谷、さらには下北沢の稽古場に通うことがむずかしくなった。

西島 大と私はお互いに進む方向が違って、その後は疎遠になってしまった。