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『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。
ただ、戯曲そのものよりも、あくまで俳優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。
この芝居、主役の阿部 寛はほんとうに運がいい。
役者というものは、ほんとうにやりたい芝居に、一生に一度か二度ぶつかれば運がいいという。この『ユートピアの岸へ』のゲルツェンほどの役には、めったに出会えるものではない。
これほどの役を演じる、ということは、その努力もなみたいていのものではない、ということになる。もともとカンのいい役者で、繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている。最近のTVコマーシャルに出ている阿部 寛を見ているだけで、それがよくわかる。そんなコマーシャルに出ているだけで、すばらしい存在感があふれる。(「セキスイハイム」のコマーシャルなど。)
この芝居の阿部 寛は、たいへんな量の科白を記憶した。
このゲルツェンほどセリフの多い芝居は、さしづめオニールの『喪服の似合うエレクトラ』や、サルトルの『神と悪魔』などぐらいだろう。『ユートピアの岸へ』のゲルツェンのむずかしさほこれに劣らない。
セリフをおぼえるのは、なみたいていのことではない。阿部 寛はさぞたいへんだったろうと思われる。九月に見たときは、阿部 寛もあまりにセリフの多さに、おぼえるのがやっとといった状態で、いくぶん同情したほどだった。
しかし、千秋楽の阿部 寛はゆるぎなく勝村 政信に対抗する。この千秋楽、阿部 寛は最高のできだった。若い役者たちがこれくらい勢いよく、轡をならべてわたりあう舞台でなければ人気は立たない。
千秋楽では、ときには鬼気せまる演技さえ見せていた。
阿部 寛のゲルツェンはあたたかい人柄で、独特の輝きを見せている。私が「カンのいい役者」というのは、いくつかのTVコマーシャルを見ているせいだが。こうした「カン」、器量の大きさは誰もが身につけているわけではない。
ただし、『ユートピアの岸へ』の俳優でも、昔の書生芝居か「新協」の芝居にでも出てきそうな連中もいた。阿部 寛には、はじめからそんなことがない。これほど繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている俳優は、やはり少ないだろう。
おなじことは、石丸 幹二についてもいえる。しばらく前までは、ただの美男、美声のミュージカル役者だったが、舞台経験をかさねることで、ぐっとほんもの(オーセンティック)の俳優になってきた。
役者の、こういう境地をどう説明していいかわからないが、石丸 幹二の根性のすわりかた、昔の歌舞伎でいう「世界さだめ」に近いもので、たとえば曽我の世界、上方なら傾城の世界を役者が自在に演じる、というようなものだろう。みごとに、「ゲルツェンの世界」を見定めて、詩人のオガリョーフを演じて、原作に対する観客の感興を助けようとしていた。近頃いい役者のひとり。(ほぼおなじ時期、NHKのドラマ、『白州次郎』で、ほんのちょっと「牛島」という若い秘書官で出てきた。まあ、しどころのない「役」だったが、石丸 幹二がなかなかの美男なので、主役を張っても通用するという気がした。)
ようするに、「ゲルツェンの世界」を現出できていたのは、勝村 政信、石丸 幹二だった。
この芝居の役者たちにしても、これほど大きな芝居に出られる機会はめったにあるものではない。
逆にいえば、今後しばらくは、まさか『ユートピアの岸へ』のような芝居に出ることはないだろう。しかし、主役クラスの俳優たちは、この芝居に出たことでひとまわりもふたまわりも大きくなった。少なくとも、そのきっかけにはなったはずである。
勝村 政信にしても、砲兵士官学校の若い生徒から、激烈な革命家まで、革命家、バクーニンをのびやかに演じていた。この前にシェイクスピアに出たときにも、ずいぶん芸熱心な俳優だなあ、と思ったが、この「バクーニン」は、勝村 政信にとっても、めったに出会えない大役だったはずである。
過激なバクーニンの、ブルジョアに対する憎しみは、ツァーリズムに対するおよそ和解の余地のない憎しみに根ざしていた。というよりも、よわい者が強い者に対して抱く、気位の高い侮蔑を、勝村 政信は見せていた。そして、長い歳月、おのれの期待にそむきそむかれて、いやというほど、辛酸を味わいつくしながら、会う人ごとに借金を申し込む、善良で愉快な人物。
私は勝村 政信の演技の幅に感心した。第三幕で、勝村 政信が笑いをさらっているあたりは、見ていてほんとうに楽しい。
この芝居、どうして大向こうから声がかからないのか。
ただし、声をかけるとして、さて、なんとしよう。勝村 政信には、ヨッ、大統領! ぐらいか。
二代目左団次は、小山内 薫と組んで、「自由劇場」でさかんに翻訳もの、新作ものを出した。その頃、左団次の意気に感じて、大向こうからしきりにヨッ、大統領! と声がかかったという。
時代は、世界大戦が終わったばかりで、アメリカのウィルソン大統領に当てた称賛だったという。(円地 文子先生が書いていた。)いまなら、さしづめオバマ大統領に当てて声をかけてもいい。
「コクーン」の観客から声がかかるはずもない。ただひたすらおとなしい。なんといっても、日本人はシャイなのである。
私としては、「第一部・第一幕」の終わりに近く、バクーニンの父親、瑳川 哲朗に声をかけてやりたかったが、プーチン大統領に当てて声をかけたと思われそうなので――黙っていた。(笑)