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『ユートピアの岸へ』は、まるでモーリス・ドリュオンの小説のように、つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
ドラマとしては、多数の人間をいちどきに出してくるのだから、進行、展開がうまく行く。
ドラマのなかを流れる時間、場所、そこにかかわる人物は、たとえ資料や事実を踏まえていようと、あくまでフィクティシアスな存在だろう。ツルゲーネフふうにいえば、日は日をついで過ぎてゆく。あとかたもなく、単調に、かつ、すみやかに。ただし、極度に単純化されたステージと、紗幕による転換のせいで、(観客にとって)しばしば人物、場所の把握がそれほど明確には見えてこない。『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない、と書いた。
女には、二種類しかない。勇気のある女と、勇気のない女と。
女優にも、おなじことがいえるだろう。
勇気のある女優と、勇気のない女優と。
この芝居では、水野 美紀が、女優として勇気を見せていた。これは、どれほど称賛してもいいほどのものだった。
バクーニン家の次女、ヴァレンカをやった京野 ことみは、はじめての舞台出演で、頬に赤丸をつけた田舎娘をやって、観客を笑わせていたことを思い出す。このドラマでは、それこそ「しどころ」のない役だが、なんとか見られるものにしていた。それも、私にいわせれば、勇気のあらわれだった。
ところで、勇気のある女優として、私がすぐに思い出すのは――たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。
この『ユートピアの岸へ』を見たあと、「ドイツ映画祭」で上映された「ヒルデ」(カイ・ヴェッセル監督/2008年)を見た。戦後、ドイツ映画を代表する女優、ヒルデガルド・クネッフの半生を描いたもので、これがすばらしい映画だった。私が感動したのは――この映画に主演した女優が、まさに勇気のある女優だったからである。
戯曲そのものよりも、あくまで俳優たち、女優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。水野 美紀を見たとき、なんというべきか、妥協のないきびしさにつらぬかれて、この芝居の水野 美紀を見るためにきてよかったとおもった。
ブリュッセルで二月革命を知ったというバクーニン、マルクス、ツルゲーネフ。そして、カフェのテーブルで、自分の目撃した革命の状況の報告、これに「ラ・マルセイエーズ」の歌声がかぶさる。銃声。ゲルツェンのアパルトマンにディゾルヴする。このとき、乞食がひとり、舞台を動かない。
ドラマが、コントラストをねらっているのはよくわかるのだが、ここでも 話題はピアニストのリストに恋した伯爵夫人の話だったり。乞食がこの場に一種の異化作用として登場していることはわかるのだが、ただ、場面をつなぐだけの意味しかないような気がする。
ここで私がこんなトリヴィアルなことをとりあげておくのは、これが戯曲の混乱、矛盾といったものではなく、トム・ストッパードという劇作家のほんらいの資質や、このドラマの意図にかかわってくる事柄が、このあたりにひそんでいるのだろうと推測するからである。
なにしろ、「第一部」が23場。「第二部」が20場。「第三部」が25場。
しかも、「第三部」には、場面と場面のあいだの「つなぎ」が、二つ。このリンケージは、海辺の渓谷のシーンで、それまでの緊迫した場面とつぎの場面のコントラストになっているのだが、劇作家が、ドラマの弛緩を、このリンケージでカヴァーしているのかも知れない。荒涼たる風景である。むろん、「第三部」の副題が Salvage だから、こういうリンクが必要だったことはわかる。
ただ、それが作劇上、成功しているのかどうか、と考えるのだが。