「ユートピアの岸へ」
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ある日、私は劇場に行く。渋谷の「シアター・コクーン」。開場の5分後には、客席についていた。
劇場のなかに舞台装置はない。客席で、舞台をぶっちぎった特設のセンターステージ。いわゆる、はだか舞台だから。カーテンもない。セットもない。
いまでは、こういうノー・カーテン、ノー・セットの舞台はめずらしくない。私は、コメデイー・フランセーズで見た『作者を探す六人の登場人物』(ジャン・メルキュール演出)を思い出した。ずいぶん昔のことである。
「コクーン」の舞台には、メークをすませた役者たち、まだ、扮装をしていない女優たちが思いの恰好でくつろいでいる。蜷川 幸雄の舞台では、見なれたシーンである。
観客たちは、セットのない仮設舞台にたむろしている役者たちを見ながら、三々五々、自分の席につく。日常的な時間が、ここではゆったりと交錯している。
5分遅れで、照明が消えて、いきなり暗黒になる。もう、俳優たちは舞台にはいない。が、つぎの瞬間、フラッドがあふれて、私たちはモスクワの北西部の土地にいる。
あざやかな導入部だった。
仮設のセンターステージが――大きな紗のカーテンを張りめぐらせることでフェイドイン、またはディソルヴする。これが「空間」になる。
このドラマは、1833年の夏から、ほとんど時間的なオーダーに従って展開してゆく。場面転換は、大きな紗のカーテンか、照明のブラックアウトによる。これだけで、演出家の思想がどういうものなのか納得させられる。
蜷川 幸雄演出、『ユートピアの岸へ』の開幕である。
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モスクワ近郊。8月も終わりに近い季節。秋はもうそこまで来ている。
ツルゲーネフなら、書くだろう。太陽は西にかたむきかけている。不意におそってきた夕立は、つい、いましがた広い荒れ野を通りすぎたばかり、と。
1833年の夏。アレクサンドル・バクーニンの領地。
『ユートピアの岸へ』第一部は、バクーニン家の物語として展開する。
モスクワの北西部の土地と説明されても実感はわかないが、私は、ザゴールスクや、ツァルスコエ・セロを思いうかべた。そして、チェホフの舞台も。
この開幕から、私はいろいろな芝居を連想した。チェホフから、マーガレット・ケネデイの「テッサ」まで。
同時に、特設舞台での紗幕の引き回しと、わずか十数本のシラカバの樹幹で、モスクワ近郊を暗示する中越 司の美術に関心した。あえていえば、簡略化された(機能重視の)仕込みであっても美しさがある。これまでの舞台がとらえなかった美しさといったほうがいい。
蜷川演出では、三島 由紀夫の『卒塔婆小町』で、椿の花が音を立てて落ちるオープニングを思い出す。美術、金森 馨。これはどうも感心しなかった。
オープニングに流した録音テープは、まったく無意味だったが、この『ユートピアの岸へ』の開幕は、中越 司の美術だけで緊張を生み出した。
バクーニン家。
かなり専制的な老貴族、アレクサンドル(瑳川 哲朗)とその夫人(麻実 れい)。ふたりの間に、4人の美しい娘たち。そして、イギリス人の家庭教師、ミス・チェンバレン(毬谷 友子)。この舞台に、ロシアというより、イギリスの伝統的な家庭劇を見るような気がした。
19歳のミハイル・バクーニン(勝村 政信)が登場する。軍の士官学校に進んだ若者は、わかわかしい声でしゃべりまくるが、ときおり、照れたように笑いながら、かなり辛辣な批評をしたりする。
彼の美しい四人姉妹たち。みんなおなじドレスを着た可愛いお嬢さんなので、はじめは誰が誰なのかわからない。いちばん上のリュボーフイ(紺野 まひる)が22歳。ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチヤーナ(美波)とつづいて、いちばん下のアレクサンドラ(高橋 真唯)が17歳。みんな、そろって可愛らしい。
バクーニン家を訪問する、まだ無名のツルゲーネフ(別所 哲也)、23歳。
そして、のちに「凶暴な」ヴィサリオンと呼ばれる、文芸批評家、ベリンスキー(池内 博之)、25歳。
みんな、若い。そして若い女優が、一所懸命に舞台をつとめている姿はいいものだ。
この幕では、ベリンスキーの変人ぶりを、池内 博之が懸命にやっている。むずかしいセリフと、おかしなドジと。池内 博之が、もっと出てくればいいのだが、残念なことに、ベリンスキーは早く亡くなってしまう。ロシア文学史にとっても残念だが、この芝居にとっても残念なかぎり。