1114 Revised

ある日の私は気ままな旅をつづけている。
明治初年の日本人労働者の苦闘をしのばせるケニヨン・ロードを通って、バギオに着いたのは夕方だった。人口、五、六万の小さな都会で、標高1500メートルの高原にあるだけに、日本の秋に似て、少し肌寒いほどの季節だった。

バギオに着いてから、自分の迂闊さに気がついた。マニラからノン・ストップの高速バスに乗ったのだが、その日遅く着いたので、マニラに戻る手段がなかった。
当時のフィリッピンは、マルコス大統領の緊急立法によって、深夜12時から朝まで、外出禁止時間(カーフュウ・タイム)がきめられている。悪いことに、私はマニラのホテルにパスポートを預けたままで、気まぐれにバスに飛び乗ってしまったのだった。

夕闇がひろがっている。
かすかな不安をおぼえながら、とりあえずホテルをさがそうと思った。見知らぬ町で、ホテルをさがす私は、おのれの孤独と寄り添うような姿だったにちがいない。

バーナム公園の近くで、ふたりの少年に会った。
ひとりは、まるで中南米の黒人を思わせる顔つき、肌の色で、もうひとりは、華僑のような少年だった。私はこの少年たちをつかまえて、しばらく話をした。
黒人に似た少年は、アートゥロ、13歳。もう一人は、ジェリー、11歳。意外なことに、ふたりは従兄弟どうしだという。
ジェリーははしっこい感じで、少し話しただけで、利発な少年だとわかった。
私は、少年たちと話をしているうちに、「パインズ・ホテル」という
「どこでもいい、落ちついた、上品なホテルにつれて行ってくれないか」
と頼んだ。

少年たちがつれて行ってくれたのは、どう見ても、けばけばしくていかがわしい雰囲気の安ホテルだった。というより、娼家(ボルデッロ)だった。

少年たちには、この娼家(ボルデッロ)が、いちばんいいホテルに見えたのだろう。あるいは、異国人の私を見て、あてどもなくさまよう旅人とみたか。
まだ、反日感情がつよく残っていた時期のこと。

私は、その夜、バギオ高原の山の中で、タクシーをひろった。外出禁止時間(カーフュウ・タイム)を過ぎていたから、タクシーをひろったのはまったくの偶然だった。
老人の運転手が、自宅につれて行ってくれた。妻に先立たれ、ひとり暮らしで、タクシーの運転手をやっているという。60代の後半か、70代になっていたか。

老人は、私が空腹と見て、パンとバタ、紅茶を出してくれた。

その夜、私は、マニラから脱出して北方に敗走した旧日本軍の惨状と、追撃するアメリカ軍の話を聞いた。
夜がしらじら明けてから、私は誰も歩いていないバギオの町を歩いて、少年たちが案内してくれたボルデッロに戻った。
ボーイが眠そうに眼をこすりながら、ドアを開けてくれた。