(つづき)
敗戦直後の「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
まず興味をもったのは、織田 作之助のエッセイ、「永遠の新人 大阪人は灰の中より」というエッセイだった。
なぜか。
この1945年3月14日に、大阪が大空襲をうけた。織田 作之助は、(私がとりあげた)「3月18日号」のつぎの号に、戦災の体験を発表している。そして、この合併号に執筆を依頼されたのは、敗戦直後の8月17日。
既に大阪には新しい灯(ひ)が煌々と輝き初めたではないか。旧人よ去れ。親に似ぬ子は鬼子といふが、新人はつねに旧人に似ぬ鬼子だ。
という。織田 作之助の気概を思うべきだろう。
この作家は、戦後、流行作家として知られたが、1947年1月に死去。
敗戦直後の「週刊朝日」に、周 作人の「明治文学の追憶」というエッセイが掲載されている。これもまた、私には驚きがあった。(ここではふれない。)
前号(つまり、戦争終結)まで続いた岩田 豊雄の『女将覚書』が完結した。日露戦争の時代に、横須賀で艶名をとどろかせた料亭の女将の半生記。海軍の話なので、急遽、打ち切られたのだろう。
岩田 豊雄は『海軍』を書いたため、戦後、公職追放処分をうけたが、獅子 文六の名で、『てんやわんや』、『自由学校』、『やっさもっさ』などを書く。
岩田にかわって、阿部 知二の『新浪人伝』の連載が予告されている。(私はこの作品を知らなかった。)
この号の定価、六十銭。敗戦直後のインフレーションの最初のあらわれ。
そして、デマが流れ、すさまじい食料難がおそいかかってくる。
敗戦の翌日には、有楽町、新橋の焼け跡に、闇屋がひしめき、あやしげな蒸しパン、雑炊、ふかしたサツマイモの切れっぱしが並んだ。飢えた人たちが、そんな食いものに押し寄せる。
(つづく)