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ある劇作家がいう。

先輩の劇作家で、人気が衰えてからも劇作をつづけた例をあまりにも多く見てき
たものだ。時代が変わったことに少しも気づかず、気の毒にも、おなじような芝
居をくり返し書いているのを見てきた。また、当世ふうの好みをなんとかとらえ
ようと必死にがんばり、その努力を物笑いにされて、しょげている先輩を見た。
以前は、芝居を書いてくれと支配人に懇願されていた人気の劇作家が、おなじ支
配人に脚本をわたしても、相手にされなかったのも見たものだ。
俳優たちがそういう先輩たちを軽蔑的に、あれこれとあげつらうのも聞いてきた。
先輩たちが、今の観客が自分たちを見限ったことに、やっと気がついて、戸惑い、
呆れ、くやしがるのを見てきた。
かつては、有名な劇作家だったアーサー・ピネロ、それに、ヘンリー・アーサー
・ジョーンズが、だいたい似かよったことばで、「おれはご用ずみらしい」とつ
ぶやいた。ピネロは、むっつり皮肉をきかせて、ジョーンズは、途方にくれなが
らも、ムカッ腹をたてて、そういった。

サマセット・モームの回想。
さすがにいうことがちがうなあ、一流作家は。

私にしても、いろいろな先輩の作家や、評論家の生きかたを見てきたものだ。
1950年(昭和25年)、岸田 国士の提唱で、文壇と演劇界が大同団結して、あたらしい運動を起こすことになった。具体的には、「雲の会」の発足になった。
私は芝居に関してはまったく無縁で、どこの劇団にも関係はなかったし、将来、自分が劇作、演出などを手がける可能性など考えもしなかった。それでも、このとき、矢代 静一といっしょに、最年少のメンバーとして参加したのだった。

「雲の会」のメンバーは、半数以上が文学者だったが、メンバーにならなかった人たちは強い反感をもって見ていたと思われる。

ある日、私は、たまたま、先輩の演劇評論家、劇評家、戯曲専門の翻訳家たちの集まりに同席した。このとき、その席にいたのは、茨木 憲、西沢 揚太郎、遠藤 慎吾、尾崎 宏次ほか数名。
ひとしきり各劇団のレパートリー、俳優、女優の誰かれの話題で盛り上がっていたが、やがて若い劇作家、演出家の月旦に移った。当然ながら、私はこの人たちの話に興味をもった。
当時、すでに劇作家として登場していた福田 恆存、三島 由紀夫、加藤 道夫、中村 真一郎、矢代 静一、八木 柊一郎の仕事などに対して、みなさんの手きびしい批評がつづいて、黙って聞いていた私はおぞけをふるった。はっきりいえば、ふるえあがったといっていい。
劇評にはけっして書かないような、激烈なフィリピックスが、ごく内輪の、こういう場所では、辛辣、無遠慮におもしろおかしく語られているのか。

このとき私は考えたのだった。
このひとたちが、後輩に対してこれほどきびしい批判を浴びせるのは――じつは、自分たちが、いつの間にか、劇壇の主流からはずれて、いまや、むっつり皮肉をきかせて後輩を語るか、途方にくれ、ムカッ腹をたてて、そんなふうに当たりちらしているのではないか、と。

時代がすっかり変わったことに気づかず、いつもおなじような主題をくり返し書くようになってから、後輩に対してきびしい批判を浴びせるようなことがあってはならない。自分がみじめになるだけだ。
いまも、この考えは変わらない。