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鴈治郎の話が出たのだから、ことのついでに団十郎といこう。

「悪七兵衛景清」を演じた。
大太刀に鎖帷子(くさりかたびら)、顔は渥丹(あか)、おそろしい憤怒の形相で、舞台に出るところだった。

たまたま、見物にきていた、ひとりの巨漢が、どういうわけかにわかに発狂した。腰の刀をぬき放ち、舞台めがけて駆け上がり、舞台に出ている誰かれなく、ただただ無性(むしょう)に斬りかかろうとした。
見物席は総立ちになって、あれよこれよと大さわぎ。

団十郎も不意のこととて、せん術(すべ)もなかったが、すぐさま舞台にあらわれて、
「おのれ、推参者、ござんなれ。目にもの見せてくれようぞ」
大声あげて、呼ばわった。
その眼を怒らせ、ハッタと睨みつけた。
このため、乱心者は、ヒョロヒョロとあとずさりして、その場に悶絶した。

見物人は、舞台の状況を見て、割れんばかりの拍手を送った。

二代目、団十郎の話。

こういう話は、時代をへだてた私にしてもおもしろい。ただし、この種のアネクドットでは、この乱心者がどうなったのかわからない。どうして乱心したのか、私としては知りたいところだが。
さらには、この乱心者が巨漢だったことはわかるのだが、その身分、住所、収入、係累なども知りたい。

もっとも、何もわからないほうが想像をたくましくすることができる。この話から、たちどころに芝居の一本、二本は書けるだろう。