秋の夜更け、昔の芸談を読むのが好きである。
自分が見ることのできなかった名優の、在りし日を偲ぶには、残された芸談を読むしかない。わずかでも残されている芸談から見えてくるものは、意外に大きい。
鴈治郎は、高齢になってから、せがれの長三郎や、扇雀と、おなじ着付け、おなじ袴をあつらえて、親子三人どこにでも出かけたという。
狎妓(おうぎ)のひとりが、
「いっしょに来やはるのはええけど、これが別々やァったら、息子はんのん借りてやはるようで、いきまへんえ」
と皮肉をいった。
すかさず鴈治郎が、こういった。
「役者に年はおまへん」
鴈治郎はいつまでもわかくて、艶聞がたえなかった。
この話の成駒屋は、1935年(昭和10年)に他界しているので、私は見たことがない。私の知っている鴈治郎は(いまの鴈治郎の父に当たるわけだから)、この話の「扇雀」ということになるだろうか。
役者に年はない。しかし、作家には年がある。
作家が年齢を重ねて、やっと人生が少しわかりかけてきたとたんに、冥途からお呼びがかかる。オレみたいな作家がくたばったところで、「そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいくだけだぜ。」か。
アハハ、こいつァいいや。(笑)