この夏、女優の大原 麗子が急死した。(’09.8.5.)
遺体の状況から、死後、二週間が経過していると見られ、警察の調べでは病死の可能性が高いという。
これが大原 麗子ほど有名な女優の死でなかったら、ジャーナリズムの反応はどうだったろうか。
この女優の死を知ったとき、しばらく前に亡くなった夏目 雅子や、飯島 愛の病死を思い出した。それからそれとひとつらなりの連想で、ハリウッドのサイレント映画の女優だったマートル・ゴンザレスが、スペイン風邪で思わぬ死を遂げたこと、あるいは、これもサイレント映画の女優だったマリー・プレヴォが、トーキー以後まったく忘れられて、悲惨な孤独のうちに死んだことなどを思いうかべた。
私は、女優の大原 麗子をほとんど見ていない。私の知っている範囲では――テレビの大河ドラマで、「勝 海舟」、「獅子の時代」、「春日局」などを見ている。ただし、見ていたというだけで、この美人女優にほとんど関心がなかった。二、三年つづけて、テレビで好感度ナンバーワンに選ばれていた程度のことだった。
大原 麗子とは関係なく、ある芸能人のことばを思い出した。
まったくの無名か、ごくかぎられた仲間うちだけで知られている役者たちが、誰にも気づかれないままにひっそりと死んでゆく。別にめずらしいことではない。
浅草にいたときはサ、身を滅ぼして死んで行く芸人てノが、周りにもいっぱいいたけど、でもそれは、美学でも何でもなくて、ただ売れないから破滅していくんだからさ。
「てめェのやっていることが、どんどん時代の感覚に合わなくなって、どんどんおいてけ堀を食らっていってさ。時代が悪い、客が悪いってひとのせいにして、ついには当たるモンがねえから、てめぇのカミさんや子供に当たったりしてさ。
挙げ句の果てはアル中になって、誰も面倒を見る者がいなくなって、孤独に死んでいくという、そういうパターンの芸人がたしかにいたんだよ。そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいっただけだぜ。」
北野 たけしの「たけしくん・ハイ!」、「青春貧乏編」の前口上。
まさか大原 麗子が貧乏だったとか、女優の依怙地をこじらせて死んでいったはずはない。だが、難病というか、つらい病気をかかえていた。しかも、もはや若くない。ドラマに出演できる可能性もなくなっていたとすれば、いくら有名な女優であっても、みずからの運命のつたなさを考えなかったはずはない。
大原 麗子の急死は、私の内部に痛ましい思いを喚び起したのだった。戦前のルーペ・ベレスの死や、戦後のマリリン・モンローの死のような悲劇ではないにしても、自らは望まなかった死だったにちがいない。
マイケル・ジャクスンの死がいたましいものだったように、私は、大原 麗子という女優のいたましさに心を動かされたのだった。
合掌。