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一茶の『おらが春』を読む。
文政2年(1819年)、一茶、57歳の句文集。

一茶は、東北地方に旅行をしようと思い立って、わが家を出る。乞食袋を首にかけ、小風呂敷をせなかにかけた恰好は、西行法師に似て殊勝だが、ほんとうは似ても似つかぬ心境で旅立っている。
二、三里も歩いてから、一茶は考える。

久しく寝馴れたる庵をうしろになして二三里も歩みしころ、細杖をつくづく思ふに、おのれすでに六十の坂登りつめたれば、一期の月も西山にかたぶく命又ながらへて帰らんことも、白川の関をはるばる越る身なれば……

もう、わが家に戻れないのではないか、と心細くなってくる。鶏が時をつげる鳴き声を聞いても、帰ったほうがいい、と呼んでいるように聞こえる。麦畑にそよぐ風も、戻っておいで、とさしまねく。また歩き出しても、あまり先に進まない。

とある木陰に休らひて痩脛(やせすね)さすりつつ詠るに柏原はあの山の外、雲のかかれる下あたりなどおしはかられて、何となく名残おしさに、
思ふまじ見まじとすれど我家哉  一茶

私は一茶の句に親しんできたわけではない。しかし、文政2年、この年が一茶にとっては苦しみのはじまりだったことを思えば、一茶の哀しみは、私にもよくわかるような気がする。