恋文。
愛するおまえに。
たった今、お前の手紙をうけとった。
おれが書いた何通かの手はもう届いたと思う。
いつもいつもお前を愛している。
おまえのすべては、おれのものだ。おまえのため、ふたりの愛のためなら
どんな犠牲も払うつもりだ。
愛している。
ひとときだって忘れない。
おれがのぞむかたちで、おまえのものになれないのがつらい。
モナムール、モナムール、モナムール・・
こんなにせつない手紙があるだろうか。そして、こんなにも美しい手紙を書いたのは誰だったのか。
これは、1936年、「恋人」のマリーテレーズ・ワルテルに送ったピカソの手紙。
およそ虚飾のない手紙で、この短い内容に、ピカソの天衣無縫な姿と、男としての純粋な欲望、支配欲(リビドー・ドミナンデイ)が脈打っている。
ピカソとマリーテレーズの出会いは偶然だった。
ある日、彼は地下鉄の入り口で、可愛らしい十代の女の子とすれ違った。ピカソは、声をかけて呼びとめた。
彼はたまたま手にしていた日本の美術雑誌を見せて、自分を画家だと紹介した。当時、ピカソは40代だったが、すでに世界的な名声を得ていた。その女の子は、どうして画家が声をかけてきたのかわからずに、まぶしそうな瞳をむけた。この少女が、マリーテレーズ・ワルテル、十七歳だった。
ピカソはこの少女を愛するようになって、それまでの作風が大きく変わった。「青の時代」と呼ばれる暗鬱な世界から、ピンクを基調とする「桃色の時代」に入ってゆく。ピカソはマリーテレーズを愛した。マリーテレーズはピカソを愛した。そして、ピカソと結婚しないまま、ピカソの子どもを生んだ。この娘はマヤと名づけられた。
私は『裸婦は裸婦として』を書くために、マルセーユにしばらく滞在した。マヤに毎日会ってインタヴューをつづけた。
そのとき、この手紙を見せてもらったのだった。
この手紙はそれまで一度も公開されなかった。私は、マヤの許可を得て、この「恋文」を引用した。
マヤの話はとてもおもしろいものばかりだった。たとえば、マヤが娘だったころ、ピカソにつれられて、闘牛を見に行ったとき、ある映画スターがマヤに夢中になった。マヤは追いかけられてずいぶん困ったという。
このスターは私も映画を見て知っていた。だから、それほど驚きはしなかったが、まるでフランス映画を見ているような気がした。
後年、マリーテレーズ・ワルテルは自殺している。はじめてマヤからその事実を聞いて、私は衝撃をうけた。
マヤの許可を得て自分の作品に書いた。それまで知られていない事実だった。