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いまでは広く一般化しているけれど、いわゆる「ラ抜き」ことばを、私は使ったことがない。
どうやら、東京の下町ことばにはない表現らしい。

はじめて聞いたのは、戦時中で、私より少し年上の友人が、「見レナイ」ということばを使った。それまで一度も聞いたことのないいいかただった。そのうちに、彼が「食ベレナイ」、「起キレナイ」、「来レナイ」といった表現をすることに気がついた。彼は大連で育ったので、「外地」の人は、こういういいかたをするのだろうかと思った。

動詞、二段活用の変化をもたらした原因がどこにあるのか。私にはわからない。

ただ、文章を書く上で、私は絶対に「ラ抜き」ことばを使わないことにきめた。

この「ラ抜き」ことばは、やがて、<xx・レル>型の用法に変化して行く。
たとえば――起キレル、受ケレル、見レル、逃ゲレル といった表現が、圧倒的に増殖してきた。

小説を書く人たちのなかにも、こうした傾向がひろがってきたのには驚いた。

私は、かなり長い期間、小さな文学賞の審査をしてきたので、おびただしい応募作を読んできた。それで、この傾向の拡大を憂慮するようになった。ただし、この審査を辞退してからは、文学表現の「ラ抜き」ことば、あるいは、<xx・レル>型の動詞がどんなにひろがってもあまり気にならなくなった。黙って見て居レル。(笑)

江戸ことばから東京ことばへの変化が、いまや21世紀型のことばへの変化の過程にある、と見るべきなのか。あたらしいコロキアリズムの成立と見るなら、「ラ抜き」ことばを絶対に書かないというのはナンセンスになる。

ただし――稗節 伝奇 架空のこと。ただ情態を写し得て。且(かつ) 善を勧め悪を懲すを 作者の本意となせるなり。などと書くお江戸の曲亭老人のものを。たまに読みふけっては楽しんでいる。私もまた老們だから。いまどきのものが見レネエとしても。知ったことじゃねえ。(笑)