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伏羲、神農の時代以前に戦争はまったくなかった。
軒轅・黄帝の御世に、乱が起きた。黄帝は風 后をさしむけて、これを破った。これより、はじめて兵戈(へいか)をもちいることになった。

五帝の頃には征戦があった。
三代、春秋の時代には、互いに取りつ取られつ。

東夷西戎(とうい・せいじゅう)、南蛮北狄(なんばん・ほくてき)>
なかでも、匈奴(きょうど)は、その人馬の勇猛をもって知られる。
しばしば、中原に進入してくる。
秦の始皇帝は、万里の長城をきずいて、胡をふせいだ。

だが、秦はほろびた。

漢が興って、文帝の御世となる。この帝は二十三年、帝位にあったが、いつもいつも匈奴(きょうど)に攻められつづけた。
その十四年目、数十万の匈奴(きょうど)が攻め込み、国運ここに急を告げる。

文帝、ついに詔を発して、軍勢を募る。……

長くなるので、ここでとめよう。
じつはこれ、明代の小説集、『雨窓欷枕集』の、「漢の李広 世に飛将軍と号せらるること」のオープニングを、私流に書き出したもの。
この短編集の成立は、西紀1541=1551年頃。日本では、種子島に鉄砲が伝来した頃。マキャヴェッリの『君主論』(1532年)、ラブレーの『ガルガンチュア 第一之書』(1534年)の時代。

最近、新彊ウィグル自治区、ウルムチで発生した大規模な暴動(’09.7.7)は、中国の民族間の対立、抗争をまざまざと見せつけている。

こんな歴史があるのだから、かんたんにケリがつくはずはない。