飯沢 匡(いいざわ ただす)という劇作家がいた。内村 直也先生と同年だから、私にとっては先輩の作家である。
戦時中、「文学座」が上演した『北京の幽霊』(昭和18年初演)、『鳥獣合戦』(昭和19年初演)を見ている。
はるか後年、飯沢 匡のご指名で、「文学座」のパンフレットにエッセイを書いた。その程度のご縁だった。
飯沢さんの人形劇、『赤・白・黒・黄』を見た。新宿/紀伊国屋ホール。作/演出・飯沢 匡。1969年(昭和44年)12月。
人形劇団「指座」の旗揚げ公演で、もう1本、江戸川 乱歩作・筒井 敬介脚色の『芋虫』の二本立て。演出・古賀 伸一。
開幕前に私は挨拶したが、こういうときの演出家の忙しさ、そして、芝居がうまく行くかどうか、じりじりするような不安と焦燥は、私もよく知っていたから、すぐに失礼したが、このときの飯沢さんのことばはいつまでも心に残った。
やあ、中田さん。この芝居、じつはあなたのご本の盗作です。
飯沢さんは笑った。私も笑った。たったこれだけのやりとりだったが、お互いにそれだけでじゅうぶんだった。私は飯沢さんの優しさを感じたし、飯沢さんも私の心からの敬意を受けとってくれたのではないかと思う。
当時、私は『忍者アメリカを行く』というアホらしい時代小説を書いていた。幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリー。こういうゲテものは、アイディア勝負というか、アイディアにプライオリティーがあるので、誰かに先をこされると、あとから似たようなものを書けばどうしても二番煎じになる。
ところが、飯沢さんは私の作品を読んだ上で、あえて、幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリーを芝居にしたのだった。
なまなかな自信では書けるはずがない。
私は、飯沢さんがわずかでも私を意識して芝居を書いたことをうれしくおもった。と同時に、私も芝居を書けばよかったなあ、と思った。
この『赤・白・黒・黄』は、人形劇でなくても、りっぱに舞台にかけられる芝居だったが、その後、どこかで上演された話をきかない。
「指座」は、筒井 敬介、川本 喜八郎、古賀 伸一たちが結成した人形劇団だったが、その後の活動は知らない。1971年、私は、テネシー・ウィリアムズの芝居の衣裳デザイナーに、この劇団にいた古賀 協子を起用した。
このときの公演は、新宿の小さな洋風居酒屋のフロアで、ノー・セット、ノー・カーテンで演出した。衣裳デザインを担当してくれた彼女は、その後フランスにわたって、フランス人と結婚した。
飯沢さんは私がいつか喜劇を書けばいいと思っていたのではないか。そんな気がする。
あいにく、私には戯曲を書く才能がなかった。
いまでもひそかに感謝している先輩作家のひとりが、飯沢さんだった。
もうひとりは和田 芳恵。和田さんのことも、いつか書いてみようか。