ファラ・フォーセットの訃報につづいて、カール・マルデンの訃がつたえられた。
本名、ムラーデン・セクロヴィチ。1913年生まれ。享年、97歳。老衰で亡くなったという。
まるっきり美男ではない。何かの球根をくっつけたような鼻。どこといって特徴のない顔。しかし、俳優としていつも真摯な演技をつづけてきた。演技、存在感、それだけでもすばらしい役者。まさに名優といっていい数少ない役者だった。
映画俳優(または、本職は舞台だが、映画に出る俳優、女優)の場合、そのスクリーン上の「役」に、俳優としての内面をさぐるとか、俳優術の進化のようなものを見届けることは――ほとんどが無意味だろう。しかし、それでも、ごく少数の俳優、女優にあっては、いつもおなじような発現――へんなことばだが、まあ、presenceとか、ある種の bliss ぐらいのつもりで使っている――を見せる。演技の原型ともいうべき状態を確実に身につけていることがわかる。
最近のいい例では――フランク・ランジェラ。リタ・ヘイワースの遺作になった「サンタマリア特命隊」(72年)などの愚作に出たあと、「ドラキュラ」(79年)に主演しただけで、ブロードウェイに戻った。いまや老齢に達した彼は、舞台の名優になっている。
もっと具体的にこれこれと指摘するのはむずかしい。たとえば、「ピアノ・レッスン」のハーヴェイ・カイテルと、「パルプ・フィクション」のハーヴェイ・カイテル。まったく違った「役」なのに、ある瞬間に全身から発する「迫力」。これは、おなじ「パルプ・フィクション」でも、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・トラボルタ、ましてブルース・ウィリスなどがまったくもたないもの。
いい俳優は、その生涯のほんの一時期、ほかの誰も見せない「芝居」をやっている。
カール・マルデンはいい俳優だった。いろいろな「役」を演じてきたが、それぞれの「役」を演じわけるのではなく、いつもおなじような発現の仕方をする、「人間」のある状態、ときには抑圧に内訌しながらはげしい怒りとしてあらわれる「動き」を見せる。
ある役者が、ドラマで、怒りをぶちまける。そんな場面は、いくらでもある。たいていの役者が、そんな演技はらくらくとやってのける。しかし、カール・マルデンの芝居はそんな程度のものではなかった。
もっとも初期の「マドレーヌ街13番地」(46年)、「ブーメラン」(47年)、「ガンファイター」(50年)といった映画に端役で出ていたが、「欲望という名の電車」(52年)の「ミッチ」は、俳優、カール・マルデンの存在をアピールした。彼の芝居が、どんなにマーロン・ブランドを、そしてヴィヴィアン・リーを引き立てていたか。
こういう役者はめずらしい。(比較するわけにはいかないが、「パン屋の女房」でレイミュが、若いジネット・ルクレルクを引き立てていた。)
いろいろな「役」を演じて、けっしてミス・キャスティングにならない。それだけに、ハリウッドは、いつもカール・マルデンの使いかたに困っていたように見える。あるいは、使いこなせなかった、というべきか。
「波止場」(54年)、「ベビードール」(56年)、「シンシナティ・キッド」(65年)。どの映画でもカール・マルデンが出てくれば、その場面はかならずいきいきとしてくる。しかし、どの映画もカール・マルデンという個性的な俳優を決定的に使いこなしていたとはいえない。
ここに、カール・マルデンの悲劇があった。
私はすぐれた俳優の栄光と孤独といったものを、いつもカール・マルデンに見ていた。カール・マルデンのような役者がほんとうに輝くとすれば、ウディ・アレンの「ブロードウェイのダニー・ローズ」のような映画だろう。むろん、ウディがカール・マルデンを使うはずもないけれど。
マイケル・ダグラスと共演したTVシリーズ、「ストリート・オヴ・サン・フランシスコ」(72―76年)は見ていない。マイケル・ダグラスなんか、見る必要もない。
カール・マルデンは名優といっていいほどの役者だが、ほんとうはもっと違う映画に出てほしかった。どういう映画に? といわれても困るけれど、私の勝手な空想では、フランク・キャプラのコメディーとか、マイケル・ダグラスよりも、ステイシー・キーチか、ジーン・ハックマンあたりといっしょにブロンクスを歩きまわるしがない刑事とか。
1989年から92年まで、アメリカ映画アカデミーの会長をつとめた。
「ドライビング・ミス・デイジー」、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」、「羊たちの沈黙」、「許されざる者」の時代。カール・マルデンは、どんな思いでこうした映画を見ていたのだろうか。
俳優は死ぬのではない。ある場面に出ていて、ふっとどこかに消えるのだ。マイケル・ジャクソンが、得意のムーンウォークで、どこか遠くのネヴァーランドに消えて行ったように。たまたま、スポットが消えて、その出口にぼうっとライトがついて EXIT と出ているだけなのだろう。
そんな思いが、はかない無常のなかにただよっている。