(つづき)
3万5千年前のクロマニョン人の男の見たものは何だったのか。
彼は、自分が彫りあげた女の乳房、その下に刻みつけた性器を、さまざまな方向から眺める。それは鑑賞というよりも、崇拝だったかも知れない。対象とするものが、たいらではない。単純であっても、プロポーションを無視したほどおおきな乳房や、性器をしめす大きな亀裂は、生きた光と影がたわむれあっている。
それを見る角度や、季節、時間によって、彼のまなざしには、けっしておなじフォルムにはならない。これは、立体だけがもっている特有の美しさなのだ。
この変化にとんだフォルムを、古代人の彼は自分の手の触感や、眼を通して、いつも存在している実態としてとらえていた。だからこそこのペンダントの女の乳房は大きく、その性器の刻みは深かったにちがいない。
彼は、自分の部族、いや、もっと小さい単位で、出会った女たちや子どもたちのために狩猟をする。
何日も獲物を追って、仲間たちと地の果てまでも歩きつづけたかもしれない。そのときどきに、自分の胸にかけたペンダントをまさぐって勇気を得た。
まだ、ことばはなかった。だが、感動は彼をうごかす。
彼の発する叫び、彼の喜びも悲しみも、いつもこの「ヴィーナス」像が受けとめてくれる。そのつややかな肌は、女のうめきであり、彼のオーガズムだったはずである。そして、何千年という果てしのない時間が流れてゆく。
この「ヴィーナス」像は呪術に使われたかも知れない。呪術であれ何であれ、この偶像(アイドル)は、「彼」が生きるという問題を見る時の新しい観点であり、その解決におけるモーティヴであり、おのれが選択し得る様々な反応のありかたをもっているにちがいない。
考古学者は、土器、陶器の破片から文明を発見する。わずかな破片の数個から、もはや失われた文化の日常生活の様式や、その技術のレベル、あるいは制度までも見ぬくという。私にはそんな能力はない。
まったくちがう思いが、私の胸をかすめる。
私は「彼」なのだ。3万5千年前のクロマニョン人は、はるかに悠久の時間をへだてながら、現在の私として生きている。そのことに私は感動する。