ビョーキの話。
文化9年(1812年)、小林 一茶は、茨城から、下総(千葉県)流山に入った。途中の部落で、若い娘を見かける。
十二日、まれの晴天なれば、籠山を出てあたご町といふ所を過るに、いまだ廿にたらぬと見ゆる女の、荒布(あらめ)のやうなるものを身にまとひ、古わらじ、馬の沓(くつ)のたぐひ、いくつともなく腰にゆひつけつ、黒髪に箸あるひはきせるなどさして、かくす所もかくさず、あらぬさましてさまよふ者あり。人にとへば、おすが気違ひとて、此里のものなるとぞ。何として仏紙に見はなされたるや、盛りなる菖蒲(あやめ)の泥をかぶりて折る人さへもなく思はれて哀也。汝、父やあらん。母やあらん。
これに説明の必要はないだろう。
一茶は、父母の愛を知らずに育った人だった。その一茶が、若い狂女をどういう思いで見たのか。年端もゆかない哀れな狂女をとらえた一節に、一茶のまなざしのきびしさ、やさしさが、まるでミニマリズムの短編でも読むような緊張を感じる。
ここで、十七、八の若い狂女がヒロインの、中村 吉蔵の喜劇、『檻の中』を思い出した。たしか大正末期か、昭和2、3年頃の作品だったはずである。喜劇というよりファルスといっていい芝居だが、劇中のあらわな女性蔑視、「キチガヒ」に対する無理解など、その眼の低さは隠すすべくもない。
中村 吉蔵は、いっとき真山 青果と並び称された劇作家だったが。
一茶は、この文化9年、二度故郷を訪れる。二度目は冬であった。
これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺
あまりにも有名な句だが、ただの慨嘆、自嘲を見るべきではないだろう。
翌年1月、父の法要をすませ、異母弟と和解する。故郷に帰ってちょうど一年目に、皮膚にできものができて、6月から75日も病臥した。
このときの皮膚病は、文化13年(1816年)の「ひぜん」とは違うだろう。私は、なんとなく帯状疱疹ではなかったかと想像している。一茶の「ひぜん」は、おそらく、栄養失調によるもので、敗戦後の私たちも苦しんだ「カイカイ」ではないかと思う。皮膚科の専門の先生にお尋ねしたいことなのだが。
私はめったにビョーキの話をしないのだが――つい最近、帯状疱疹になったのでビョーキの話を書く気になった。一茶さんに同情をこめて。(笑)