日本に、ルイ・ジュヴェの名がつたえられたのはいつ頃だったのか。
昭和初年の「英語研究」という思いがけない雑誌に、フランス演劇の紹介記事で、ルイ・ジュヴェの名前を見つけて驚いたことがある。
大正時代の映画雑誌、「キネマ旬報」を読んでいるうちに、飯島 正の「ジャック・フエエデに就いて」(「キネマ旬報」大正15年11月1日号)のエッセイで、
これは又話の別になるが、今年の春、一夕、森 岩雄氏、内田君、佐藤君がわたくしの宅を訪れられた時のことを思ひ出す。森 岩雄氏の話は多岐に渉った。ミスタンゲットのこと、ガストン・バティのこと、ルイ・ジュウヴェのことなど。その時、話が「面影」に言及されたとき、「あの映画のよさが日本の見物にしつくりと分るだらうか少し怪しい」といふ意味のことを云はれた。
という一節をみつけた。筆者は、飯島 正。
エッセイに出てくる森 岩雄はプロデューサー、のちに「東宝」の重役、晩年は仏門に帰依した。内田は「キネマ旬報」同人の内田 岐三雄、佐藤はおそらく佐藤 雪夫だろう。ともに、戦前から戦後にかけての映画評論家である。
このとき、バティ、ジュヴェの話が出たのだから、おそらくコポオ、デュランも話題になったのではないか。
ミスタンゲットが、まだ少年のジャン・ギャバンを「若いツバメ」にした頃かも知れない。(私は、この頃のギャバンのシャンソンをたいせつにもっている。)
飯島 正がルイ・ジュヴェの名をあげても不思議ではないが、私はこのことを知ってうれしかった。きわめて短い期間だったが、戦時中に、私は飯島さんの講義を聞いた学生だった。
去年、「彷書月刊」という雑誌の「私の先生」という特集で私は飯島先生のことを書いたのだった。
はるか後年、私は映画批評を書くようになって、試写室や、いろいろなホールで、飯島さんにおめにかかることがあった。
私にとっては、なつかしい先生のおひとり。