(つづき)
私が「劇団」を出たあと、彼女も別の有名劇団に移った。この主宰は、私もよく知っている人だった。(彼のことも、いつか書いてみよう。)
その週刊誌の記事には、
T.F.(劇団の主宰)も、これからよくなる役者と期待していたんです。テレビの脇役にも出ていた。ところが、ご主人がヒモみたいな人で、彼女、食べるために役者をやめて銀座に出たんです。(劇団員)
銀座のクラブ「S」での彼女、「知的な会話が売り物」とかで、月収五〇万円。「Y.I.サンは、Sを働かせて自分はゴルフ、クルマ、釣りの遊び人。普段はペアルックなんか着て、年がいもなくべたべたしていたが、ひどいヤキモチ焼きでね。彼女が店の客と食事で遅くなるだけでバカヤローとどなる。Sが愛想をつかすのも当然」
そして愛人ができた。Y.I.サンにバレて連日の大ゲンカ。そして<女優>は自ら人生の幕を下ろした。
下品な記事だったが、これを読んだ私は、ほんとうに胸が痛んだ。
研究生だったS.Y.を、はじめて舞台に出したのは、私だった。八木 柊一郎の『三人の盗賊』という芝居だった。このとき、彼女がなかなか勉強していることを知った。どことなく、さびしそうな翳りがあった。おそらく、貧しい生活をしていたに違いない。
そのあと、劇団員に昇格したのも、S.Y.がいちばん早かった。
私は、テネシー・ウィリアムズの『浄化』という芝居で使った。その後、レスリー・スティーヴンスの『闘牛』という芝居で、大きな役をふったのだが、S.Y.は辞退した。ここには書く必要はないが、ひどく恥ずかしそうに理由を語った。これも私にはショックだった。
私が、小さな劇団をはじめ、S.Y.を誘いたかったのだが、いまさら弱小劇団で苦労するよりも、もっと大きな劇団のオーディションを受けたほうがいい。私はそう思った。だから、私はS.Y.を誘わなかった。
その後、S.Y.は、NHKのテレビで子ども番組にレギュラーで出演していた。私は、彼女のためによろこんだ。生活も安定しているらしく、表情もいきいきとしていた。
彼女の舞台も何度か見たおぼえがある。
S.Y.の死は、ほんとうにショックだった。これから、かなりいい女優になれたはずだった。その彼女が、突然、こんなかたちで人生に見切りをつけるなんて、ぜったいあってはならない。私の胸にあったのはそういう悲しみだったのだろう。
ひとかどの才能に恵まれて、美貌で、自分でもずいぶん努力してきたはずの、だが、それほど有名ではなかった女優が、おもいがけないことで死を選んだ。
もし、あのとき私がS.Y.を誘っていたら、という思いもあった。
もう25年も前の3月14日のこと。