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 あるとき、芝居の劇評を書いた。雑誌の「テアトロ」に書いたのだが、雑誌の劇評なので、芝居を見てから、しばらく時間的な猶予があった。
 当時、私は週刊誌や雑誌でいろいろな仕事をしていたので、けっこう忙しかった。毎日、仕事に追われていたので、いつしか自分の見た芝居の印象が薄れてしまった。締め切りがきたので、あるホテルのロビーまで編集者にきてもらって、その場で書いた。
 うっかり、主役の名前を書き間違えた。劇評で出演者の名前を間違えるなど、言語道断だろう。
 編集者は、その場で私の誤りに気がついたが、そのまま掲載したのだった。締め切りをすぎていたので、時間がなかったということになる。
 私の劇評が出た翌月、その俳優が抗議文を投書してきた。
 私は、すぐに編集部に電話をかけて、謝罪文を載せてほしいとお願いした。そして、その俳優に対する謝罪の文章を書いた。

 私と関係がないエピソードを思い出す。
 明治時代の作家、翻訳家だった森田 思軒が、「宮戸座」の劇評を読んで、『縮屋新助』を見に行った。九蔵(七世・團蔵)の「新助」、栄次郎の「美代吉」だった。
 栄次郎が、桟敷に挨拶にきた。

 思軒が栄次郎に向かって、
「美代吉がハンケチを持って居るのは変だと言った評を見たがハンケチじゃないね」
 というと、栄次郎は、
 「あんな無茶な評を書く先生があるから、口惜しう御座います。私は此の役をするので辰巳(深川)の芸妓のことをいろいろと聞きました。縮みの汗鳥を持って居たと聞きましたから、それを使ったのをハンケチと見られたのは弱りました。」
 と答えたという。

 鶯亭 金升の資料に、こんなエピソードが出ていた。
 栄次郎は、いっとき五代目(菊五郎)の養子になった役者。
 これを読んで、私は劇評など書かなくてよかったと思うようになった。

 その後、劇評はいっさい書かなくなった。
 私の原稿を読んでカン違いにすぐ気がつきながら、おもしろがってその原稿を載せた編集者に対する不信は心にくすぶっている。私は自分の非をじゅうぶん認めるけれど、その編集者が私をはずかしめようとしたことを忘れない。
 もう何十年も昔のこと。