つづき)
八木 柊一郎の『三人の盗賊』のときは大川を演出助手に起用した。
『闘牛』のときは、舞台監督に使った。
きみも知っての通り、芝居の世界は稽古に入ったときから思いもかけないことの連続で、トチリや、失敗、仲間どうしのねたみや嫉妬、ときには日常では起きることのない昂揚、<Sternstunden>(たまゆらのいのちのきわみ)、それこそ笑ったり泣いたりをくり返してきた。
この芝居の稽古中にも、いくつも奇事、奇ずいめいたおもしろいことが重なって、みんなの泣き笑いのなかで、芝居の成功を確信した。芝居者の迷信に近いものだが、とにかく大川がいてくれたおかげで、この芝居はいつもと違うものになると思った。
そして成功した。それもこれも、大川がいてくれたおかげだった。
また別の芝居だったが、劇中のラヴシーンで、大川は、「先生、舞台いっぱいに綺麗な花を飾りましょう」という。それはいい。しかし、「キエモノ」の経費を考えただけで、はじめから不可能な話だった。
そこで考えたのは、費用をかけずに花がつくれないか、ということになる。大川といっしょに考えた。そして、考えたのは――現在の物価でも、せいぜい1500円程度で――それこそ百花繚乱のシーンだった。
われながらとてつもないアイディアで、大川とふたりで大笑いした。そうときまれば、こっちのもんだ。ソレっとばかりに役者たちを督励しながら「花作り」に精を出した。
舞台いっぱいとはいかなかったが、タテに5メートル、幅は2メートルの花のタワーを作ったのだった。
この芝居もなんとかうまく行った。
「木地のままの縁台(トントオ)が一つあれば、それでいいのだ」
と、コポオはいった。私は、このコポオを尊敬していた。
だから私はほとんどすべての舞台で、まったく赤字を出さなかった演出家だった。
大川というと、いつも元気に舞台を作っていた姿を思い出す。
その彼が、きみの土地でバレエの台本を書いていたことは知っていたが、一度も見に行けなかった。残念というより、おのれの不実がくやまれてならない。
村上君
きみが市民演劇のために戯曲を書きつづけていたことは知らなかった。
戯曲は、上演されないかぎり、人の眼にふれることはない。活字として発表されることが少ないため、残念ながら、そのまま忘れ去られることが多い。
いつか、私にきみの戯曲を読ませてくれないだろうか。
楽しみにしているよ。
(つづく)