922

 
 人生をふり返って幸福だったと思えることが少しある。
 たとえば、通勤ラッシュをほとんど知らずに過ごせたこと。

 中央線/快速の「モハ」型の車両の定員は136人。ところが、この車両に、640から650人もつめ込まれた記録があるという。
 こうなると、押しあいへしあい、どころのさわぎではなくなる。

 酸素消費量などによって調査したエネルギー消費量は、60分←→70分の通勤で、平均190~200カロリー。
 一日8時間の労働で消費するエネルギーは、1300カロリーといわれるが、電車の通勤ラッシュで、一日の労働の一割から二割のエネルギーを消耗することになる。

 私は、週に二度、千葉から総武・中央本線で新宿に出て、大学に通った時期がある。
 杉並の和田にあった大学のキャンパスに通ったのだが、やがて、大学は神奈川県相模大野に移った。
 私は千葉から新宿に出て、(所要時間/1時間15分)、さらに小田急線で、相模大野まで出る。ざっと2時間半はかかる。さらに、相模大野からバスで20分。
 大学にたどり着いて、2コマの授業を終わると疲労をおぼえた。

 押しあいへしあいの通勤ラッシュを経験したのも、これがはじめてだった。

 なんとか解決する方策はないものか。
 けっきょく、西新宿の安アパートに入って、地下鉄で新宿に出て、相模大野まで通勤するようになった。早朝6時には電車に乗ったので、なんとかすわれたし、それほどひどい通勤ラッシュにあわずにすんだ。
 早朝から大学で制作するらしく大きなキャンバスをかかえた女の子が、私を見かけて驚いたような顔でお辞儀をする。そんなときは、ほんとうにうれしかった。

 冬の朝、しらじら明けで門も開いていないので、大学の近くの森や、低い丘などを散歩することもあった。
 誰もいない研究室に入って、しばらく原稿を書く。しばらく本を読む。ときには翻訳を1冊仕上げたこともあった。
 仕事にあきると、階下の「芸術学部」の研究室に行く。私はこの学部にまったく関係がなかったが、助手の吉永 珠子、寝占 優紀たちが、コーヒーを入れてもてなしてくれるのだった。

 私にとっては、この大学ですごした頃がいちばん幸福な時間だった。