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   (つづき)
 私自身、リーヌ・ノロを見たといっても、「望郷」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)のあと、戦後に「田園交響楽」(ジャン・ドラノア監督)で見ただけである。

 「望郷」は、犯罪者としてアルジェに逃げ、カスバにひそんでいる主人公、「ペペ・ル・モコ」が、たまたまパリから観光にきたブルジョア女に心を奪われて、ひそかにパリにもどろうとする。リーヌ・ノロは、それを知って嫉妬にかられて警察に密告する現地妻をやっていた。この一作で、リーヌ・ノロは、私たちに強烈な存在感をあたえた。
 当時、舞台女優としてのリーヌ・ノロは、ルイ・ジュヴェの劇団で、ジロドゥーの芝居に出ていたし、「コメデイ・フランセーズ」の准幹部(パンショネール)になっていた。これだけでも、すぐれた舞台女優だったといえるだろう。
 戦後の私たちは、「田園交響楽」で、美女のミッシェル・モルガンの健在を知ったが、ワキの、それも村の老女を演じていたリーヌ・ノロに注目した人は、ほとんどいなかったはずである。

 評伝、『ルイ・ジュヴェ』で、私はリーヌ・ノロにふれた。この評伝は出版にこぎつけるまでずいぶん時間がかかったが、当時、私は「作家のノート」といったものを書いていて、偶然、リーヌ・ノロに言及している。(1997年8月)

    『望郷』で嫉妬に狂うアルジェ女をやっていたリーヌ・ノロは、自殺している。
    自殺という行為にはなにがなし哲学的なところがある。自殺は、最後のぎりぎりの人間愛の表現友受けとれるふしがないでもないのだが、私ときたら、およそ哲学、形而上学などと縁がなかった。そもそも自殺の意味など考えたことがなかったし、自殺すべき理由もない。とすれば自殺などできようはずもない。私などはつたない運命の波間に浮草のように漂うくらいがせきの山であろう。
    ただし、死は私にとってきわめて親しい観念だった。どういう死にざまをさらすのか、じぶんなりに好奇心がある。にんげん心臓がとまれば死ぬらしいが、ほんの一瞬、まだ脳髄が生きているとき、死に対してどういう感想をもつだろうか。おのれの未来に驚きが待っているとすれば、そんなことぐらいだろうから。

 リーヌ・ノロの自殺にふれたのは、この評伝の最終章、もうひとりの女優、(この評伝の主要な登場人物だった)ヴェラ・クルーゾーの自殺の伏線として、とりあげておいたのだった。
 この評伝の最後の最後に、ヴェラ・クルーゾーの自殺をとりあげた。少女時代にジュヴェの劇団で認められ、戦時中、ラテン・アメリカ巡業で、最後まで、ジュヴェと苦難をともにした。
 映画監督、ジョルジュ・クルーゾーの映画史に輝く「恐怖の報酬」に出たヴェラは、この映画で世界的な名声を得ながら、自殺という手段を選ばなければならなかった。

 私が書きたかったのは彼女たちに対する憐憫であり、ひそかなレクィエムだったといってよい。

 香港の俳優、張 國榮が自殺した時、私はつよい衝撃を受けた。つづいて、女優で、一流のシンガーだったアニタ・ムイが病死した。
 2005年に、韓国女優のイ・ウンジュが亡くなっている。その後、日本のポルノ女優が自殺したり、昨年は韓国のシンガー、ユニの自殺につづいて、女優、チョン・ダビンが自殺した。私はそれぞれの人の死につよい関心をもちつづけてきた。
 私が「死は私にとってきわめて親しい観念だった」と書いたのは、じつはこうした人びとの死を見つめてきたせいだった。そしてそれこそが『ルイ・ジュヴェ』の大きな主題の一つになった、と考えている。

 いま、私はリーヌ・ノロや、ヴェラ・クルーゾーより前の世代の女優の評伝を書いてみようかと思っている。
 時間があるかどうかわからないが。