芸術家の運命といったことを考える。考えたところで、たいした結論は出てこない。
さして長くない生涯で、いろいろな才能と運命が、思わぬ時と所で、重なりあい、あるいは反発しあい、むすぼれたかと思うと、いつか離れてゆく。
有為転変は世のならい。滄海変じて桑田となる。
おもしろいのは、広重は国芳とおない年。豊国の門下に入ろうとしたのも、文化8年(1811年)、当時、15歳。
ところが、豊国は門人が多くて、とても教える時間がないという理由で、広重の入門を許さなかった。
おない年の国芳は、豊国の門下に入っている。
広重はやむを得ず、おなじ歌川派ながら、豊国とは画風も制作の姿勢も正反対の豊廣の門に入った。
豊国は門人が多くて、とても教える時間がなかった。国芳も入門できなかったはずだが、それが許されたのは、豊国は国芳の才能を認めたと思われる。
はたせるかな、国芳は入門後わずか三年で、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。
広重のほうは、入門後、じつに9年たって、ようやく処女作を発表する。
ところが、国芳の合巻ものの評判はあまり芳しくなかった。
私が評伝という文学形式につよい関心をもつのは、一方に充実した幸福な人生があれば、他方に、悲運にあえぐ生涯もあって、その巧まざる対比が、芸術家の運命を私につよく考えさせるからである。
林 美一は国芳の作品を比較しながら、あまり人気のなかった頃の挿絵のほうが格段にいいとする。そして、人気とは所詮そう云うものなのだ、という。そういい切った表情を想像する。
私は、林 美一の仕事にいつも敬意をもってきたひとり。