林 美一の『国芳』を読んでいて、こんな一節にぶつかった。
しかし、由来、人気と、大衆の好みとは、その芸術家の持つ実力としばしば相反するものである。この時代の国芳が既に人気のあった天保二年刊行の人情本『和可色咲(わかむらさき)』二編の挿絵と比べて見ると、むしろこの時代の作品の方が格段に上手く、情熱に溢れている。人気とは所詮そう云うものなのだ。
国芳は、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。同13年には、当時のベストセラー作家、山東 京伝の新作に、先輩の国貞、兄弟子の国直と合筆で挿絵を描いている。私は見たことがないのだが、国貞、国直と区別のつかないほど達者な作という。
がそれはとりも直さず、国芳自身の絵に特色がないと云うことにもなるわけで、これならば何もわざわざ国芳に頼まずとも、人気絶頂の豊国、国貞はじめ、国直、国丸、国安、国満など豊国門だけでも絵師は幾らでもいるのだから注文のこないのは当然であろう。
と、林 美一はいう。この研究家は、文政の頃の広重もおなじだろうという。
広重は、『東海道中五十三次』を出すまでは、何の特色もない歌川派の絵を描いていた画家で、名前もろくに知られていなかった。
(つづく)