パリでタクシーに乗った。
どこで乗ったか、どこに行こうとしていたのか、もうおぼえてもいない。
タクシーの運転手は、初老の男だった。おきまりの会話からはじまった。どこからきたのか。
日本から。
どのくらい旅行しているのか。
私のフランス語よりはずっといいが、スラヴ訛りのつよいフランス語だった。ロシア革命で亡命したという。
私がロシア文学にいくらか通じていることがわかったらしい。
ベルジャーエフを知っているか、と私に訊いたのだった。
「知っている。彼の「ドストエフスキー」を読んだ」
タクシーの運転手の顔に驚きが走った。
パリで、ベルジャーエフを知っている日本人に会おうとは思ってもみなかったらしい。
私は、ベルジャーエフの「ドストエフスキー」を読んでいたが、あまりくわしくなかった。まして、フランス語でベルジャーエフの哲学を少しでも論じることなどできるはずがない。
彼は通りの横にタクシーをとめてしゃべりはじめた。あたりは暗かったが、ブールヴァールには明るい光が散乱していた。「テアトル・フランセ」の近くで、車の流れが多かった。パリが華やぎをましてくる時間だった。
(つづく)