ジョニー・デップ。
今の俳優のなかで、ジョニー・デップは私が名優と呼んではばからないひとり。
はじめて映画で見たのは「エルム街の悪夢」だった。このときから、ジョニー・デップに注意した――わけではない。ろくにおぼえてもいない。ヒロインの恋人として登場するけれど、たちまち殺されてしまう。
「プラトーン」にも出ていた。まるで目立たなかった。あとになって(ジョニーがスターになってから)もう一度見直して、へえ、あのG.I.だったのか、と気がついたくらい。
そして「シザーハンズ」。ティム・バートンの映画であった。
この俳優の存在が気になりはじめたのは、「妹の恋人」からだった。ひゃあ、この若者はキートンを狙っているのか、と驚いた。こういうタイプの俳優はめずらしい。
「アリゾナ・ドリーム」。初老になったジェリー・ルイスと、おババになりかけのフェイ・ダナウェイが主演。ジョニーは、空を飛ぶことを夢見ているおババに恋をするヘンな若者をやっていた。いい芝居をするなあ、と思った。
「ギルバート・グレイプ」。これは、ディカプリオの映画だったので、ジョニー・デップに感心したわけではない。
つぎに「エド・ウッド」。ティム・バートンと組んだ第二作。これで、イカれた。
私は、ものごとにこだわらない(と、自分では思っている)。それでも、こだわりはある。
関心をそそられると、いつまでも心のなかで追い続ける。ただし、しつっこく考えつづける、コンパルシヴな追求ではない。ただ、折りにふれて、その人のことを思い出している。それが楽しい。
ジョニー・デップは、なぜ名優と呼んでしかるべきか。
このことは、私が――ロバート・デニーロ、トム・ハンクスを、才能のある俳優、すぐれた俳優と見ていながら、現在、かならずしも名優と呼ばないことにかかわってくる。 アンソニー・ホプキンスなど、私は「名優」と呼ばない。
これは、花衫(ホアシャヌ)の名優として梅 蘭芳、尚 小雲をあげても、正旦(シャオタン)の程 硯秋を名優と呼ばないことに似ているかも知れない。
いつか、ジョニー・デップについて何か書こうか。むろん、書かないまま終わるかも知れない。