「助六」は、見ているぶんにはおもしろいが、脚本としてはあまりできのいい芝居ではない。桜田 治助のせいなのか。当時の劇場のマネージメントのせいなのか。
助六のお茶番が、いまではまったく通じないので、シャレがシャレにならない。団十郎をもってしても、というのではなく、今の団十郎ではなおさらという感じだった。
股くぐり、キセルの鉢巻き、足で出すキセル、ゲタを乗せて嘲弄するのが、あまりおもしろくない。どうも理不尽ないいがかりにしか見えない。
そうなると、お目当ては「助六」の江戸ッ子らしい姿とタンカだけだが、昔の羽左衛門、音吐朗々、「遠くは八王子の売炭歯ッ欠けじじい」のツラネが耳に残っているせいか、今の団十郎程度ではこの芝居のほんとうのおもしろさを期待しても無理というもの。
「助六」の作者はおもしろいやつだったそうな。
四代つづいた治助の初代目。桜田 左交。「助六」とおなじ花川戸に住んでいた。
芝居小屋(劇場)が、日本橋、京橋にあった頃だから、花川戸では、ずいぶんと不便だったはず。じつをいえば、治助はすぐ近くの吉原が大好きだった。
毎晩、吉原をひとわたり歩かないと気がすまない。
仲の町を一遍通りて、両側の茶屋女房、呼びかけるを嬉しく思ひ、江戸町より三丁目、京町の格子で話して、馴染みの女郎、あちらからも爰(ここ)からも左交さん左交さんと云はれたく・・
という次第。いまどきの三文文士には羨ましいかぎり。
ある年の暮れ、この吉原の「鶴屋」という店に新顔が出た。治助は、どうかして「物を云ひかけられたい」と思った。その正月に、造花の梅の枝に、手紙をかいてくくりつけ、ラヴレターの心で、花魁の名を書きとめ、こまごまとしたためて、格子の隙間からぽんと投げ込む。その晩は帰ったが、あくる晩もまた格子に立つと、
その女郎来て、もし昨夜(ゆうべ)の御返事をと云はれ、逃げ出せしもおかし。
ということになる。
江戸の劇作家は、こんなことに憂き身をやつしていたらしい。これがまた、私には羨ましい。
「助六」のなかに、いろいろな悪態が出てくる。みんな、治助が足と耳で集めたものだが、自分で「発明」したものも多い。いい時代だなあ。自分の作品に、ありったけ悪口雑言をつめ込む。
今は、ネットで匿名、いじめ、いやがらせのメールを送りつけるような、あさましい根性のやつばかり。江戸ッ子の風上におけねえやつら。
やっぱり「助六」でも見るしかねえか。