ハーバート・フーヴァーは、戦後すぐに、特使として来日している。
当時の新聞記事(1946年5月7日)によれば、
ハーバート・フーヴァー氏一行は五日午後一時廿五分、厚木飛行場着、日本の食料問題を主宰する連合軍最高指令部、経済科学部長、マークワット少将、マッカッサー元帥の政治顧問で連合国対日理事会/アメリカ代表であるアチソン氏、連合軍最高司令官軍事秘書官、並びに対日理事会事務総長フェラース大佐らの出迎えを受け、直ちに東京のアメリカ大使館へ向かい、マッカッサー元帥と午餐を共にして後、連合軍最高司令部に入った。
なお同特使は六日宮城前広場で騎兵第一師団の歓迎分列式を閲兵した。
当時、敗戦国日本は激動のさなかにあって、毎日のように、衝撃的なニューズがあふれていた。その激動のさなかのフーヴァーの来日は、それほど注目されなかったのではないかと思う。
この日の新聞には、鳩山一郎(自民党総裁)の追放による政局の混迷や、「ポツダム宣言」受諾(勅令542号)にともなって、軍国主義教育、皇国思想を推進した教職員の除去(公職追放)、就職禁止の命令、訓令が出ている。
連合軍最高司令部においても、日本での連立内閣の可能性が論議され、自由党に対して全面的に社会主義政策への協力をもとめる(その一つに、共産党を入閣させることさえ含まれていた)ことをめぐって、はっきり対立がうまれはじめていた。
当時の私は、フーヴァーの来日にまったく関心がなかった。というより、連合軍の占領政策についても何ひとつ知らなかった。知識がなければ関心も生まれない。
個人的なことだが、この4月、私は「近代文学」の人々と知りあって、批評家になろうと決心をしていた。
私は神田の「文化学院」の二階にあった「近代文学」の事務室に毎日のように遊びに行った。荒 正人、佐々木 基一、埴谷 雄高、本多 秋五、山室 静、平野 謙といった人々の話を聞くだけでもたいへんな勉強になった。
この人たちは私がどんなに幼稚な質問をしても、まともに答えてくれたのだった。十代だった私には教養も知識も決定的に不足していた。とにかく、勉強することは山のようにあった。
当時の私が、フーヴァーの来日にまったく関心をもたなかったのは不思議ではない。
戦後すぐのフーヴァー来日の目的は、逼迫していた日本の食糧問題に関連していたと理解している。
政治家としてのフーヴァーは、今の私にとってはけっこうおもしろい人物に見える。若き日のフーヴァーは、鉱山技師として清国の鉱山を調査していた。まさにその時期に義和団事件に遭遇したことも私は知っている。
むろん、私はフーヴァーについて何か書くことはない。しかし、マケインを相手に、クリントン、オバマ両候補の激烈な争いが続いているのを見ながら、ウィルソン、クーリッジ、はてはフーヴァーの「アメリカ」について考えるのも、私の趣味なのである。
回顧趣味ではない。ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておけば、別の時代に生きる別の人々の考えだって、手にとるように見えてくるのだ。