1945年、敗戦直後から日本人は、毎日が、激烈な混乱の坩堝に生きていた。
当時、すべての物資が統制されていて、とくに紙が払底して、新聞でさえ一枚(つまり、裏オモテ、2ページ)でやっと発行されていた。
その一方で、「日米会話手帳」といった薄っぺらな小冊子が本屋に並んで、たちまちベストセラーになった。私もこの小冊子を買ったが、実際にはなんの役にも立たなかった。
戦後すぐに、私は匿名批評のようなものを書きはじめた。これが私の文学的な出発になったが、いま考えても貧しい出発だったと思う。しかし、当時の私たちには同人雑誌を出すことなど考えられなかった。
はじめて私の書いたコラムが出たのは、1946年2月11日だった。
この日付を覚えているのは、この日、私がひそかに尊敬していた小栗 虫太郎が亡くなったからだった。
はじめて活字になった自分の文章を眼にしたとき、私はうれしかった。私の書いたものなど誰も読むはずがない。ただ、その新聞を母に見せた。
母は私がそんなものを書くとは夢にも思っていなかったらしい。
私の書いたものは、いくらか評判になったらしい。ある日、知らない読者から葉書が届いた。荒 正人という人からのものだった。
コラムを書かせてくれた椎野 英之のすすめで、私は荒 正人に会いに行くことにした。母の宇免は、それを知って――
耕ちゃんもこれから、いろいろな人に会うようになるわね。そんなとき、恥ずかしい思いをしないように。
といって、最後までとっておいた和服と、古着の背広を交換してくれた。
その背広を着て私は荒 正人に会いにいった。