国破れて山河あり。
1945年9月、まだアメリカ占領軍が上陸していない時期。敗戦直後の日本では混乱のなかで、人々は虚脱したように右往左往していた。
このときから数カ月、すべての日本人はまったく経験したことのない激変にさらされつづける。
私たちを恐怖のどん底にたたき込んだ空襲はなくなったが、土浦の海軍航空隊の戦闘機が、戦争継続を訴えるビラをまいたり、夜道で強盗が出没したり、陸軍が崩壊して、脱走兵や、軍を離脱して故郷にむかった兵士たちが、なだれをうって列車に乗ったり、ほんとうに物情騒然としていた。明日はどうなるのか誰にもわからなかった。
アメリカ占領軍の上陸は9月12日だったが、アメリカ兵が何をするかわからないというウワサがみだれとんで、女たちはおびえていた。それよりも先に食うものがなかった。飢えがどういうものなのか、私たちは知ることになる。食料の配給さえ遅配がつづき、三度の食事どころか一日一食さえおぼつかない。
敗戦の翌日には闇市が出現した。有楽町、新橋、上野の駅前、浅草、田原町から国際劇場まで、葦簾張りや、焼け跡からひろってきたトタン屋根などの、店ともいえない規模の店がごった返していた。
物々交換で何でも手に入るようになったが、私たちは二度も焼け出されたため、食料と交換するための品物もなかった。
母が疎開しておいた和服なども、たちまち食料に化けてしまった。当時のことばで「タケノコ生活」という。筍の皮を剥ぐように、自分の持ちものを1枚づつ剥ぐようにして、別の物品に換えて暮らすこと。
母のもっていたものなど、あっという間に消えてしまった。