文字あまり。「長発句(ながほっく)」という。
踊子に穴あらば数珠につないで後生願はんものを
--百丸
おそらく芸妓が舞台で踊っているのだろう。その踊り子に穴があったら、数珠につないで、来生の極楽往生を願いたいものだ、ということ。むろん、これは表面だけ。「踊子に穴あらば」という仮定法がいやらしい。当然、踊子と一夜の歓をつくして、極楽往生をとげたいものだという意味になる。
この作者の放埒な工夫は、女体の「竅」と数珠の数を割ってみるとわかる。
別の異形(いぎょう)の句。
大西瓜何値段わずかに八分百よりはやすし
--青人
近在の百姓がかついできた大きな西瓜を買うつもりで、値をあたる。値段がひどく安くて「わずかに八分」というのではなく、百文よりはほんの「わずか」しか安くない。
百姓に足もとを見られたか。そういう意味だろうと思う。
あたご火や江戸鬼灯めせところてんものまいれ
--同
私にはむずかしい一句。この「あたご火」がわからない。伊丹から京都はそう遠くないので、おそらく上嵯峨の愛宕神社の鎮火祭をさすのではないか。その縁日に、境内に出た店の女が、江戸で流行している「ホウヅキ」市からとり寄せた「ホウヅキ」を買って頂戴、「心太」(ところてん)も召し上がれ、と呼びかける、という光景だろうか。ただし、よく読むとなにやらエロティックな季節感がまつわりついている。
女郎花立てり禅僧指断村薄 --鸞動
これまた、私にはよくわからない。女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。淡い黄色の小さな花がびっしり密生する。
どこかの原っぱに女郎花が群生している。通りかかった禅僧が、ふと女郎花に眼をとめた。誰も気がつかないが、村のススキより、この可憐な女郎花のほうに、ずっと秋の風情があるではないか、と悲憤慷慨しているのか。禅僧の野暮をからかっている。
「指断村薄」は、禅僧、指断ス、村ススキ、と読むのかも知れない。作者の工夫は、「禅僧」のゼ、ソ、「指断」のシ、「村薄」のスス、というサ行の音の執拗なくり返しと、「禅僧」のゼン、「指断」のダンの重なりにある。ようするに押韻の試みと見てよい。
いくら工夫したって、つまらない句に変わりはない。
さて、談林から出発した芭蕉はどうだったか。
(つづく)