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 牧原 出という学者が書いている。
 この先生は、ロンドンで、いろいろとコンサートに行くようになった、という。

    もちろん最初の頃は、日本ではCDでしか聞くことができない演奏家のコンサートが続くので、演奏に心を奪われる思いだった。だが、いくつかコンサートに行くにつれ、演奏もさることながら、観客の様子を観察することもまた面白くなってきた。日本でクラシック音楽のコンサートといえば、外国の有名演奏家を拝むように聞く人たちか、さもしたり顔でミスがないかと身構えるマニア風の聴衆が目についたが、ロンドンの聴衆はもっと屈託がない。ロンドン在住の演奏家の場合は「ロンドンっ子」が演奏して、という感じだし、ヨーロッパ大陸から名だたる演奏家がやってくれば「よくぞ来てくれた」という雰囲気が漂っている。音楽を伝統の一部として日常的に受けとめているような聴衆の態度は、よくも悪くも舶来品を珍重する日本の聴衆の姿勢とは全く異質だった。

 この学者は、東大の「先端科学技術研究センター」の客員教授。

 これは、まったく同感で、私なども日本で音楽のコンサートで、よく経験したものだった。私なども「外国の有名演奏家を拝むように」聞いてきたひとり。しかし、そのうちに「したり顔でミスがないかと身構えるマニア」など気鬱(きぶ)っせい連中がいやでコンサートにも行かなくなった。

 芝居の観客も似ている。
 東京で「モスクワ芸術座」や、「コメデイ・フランセーズ」などを見た頃は、外国の有名な演出家の芝居を拝むようにして見ていた。「モスクワ芸術座」などを見て、スタニスラフスキー・システムを唯一無二の演技論とあがめ奉っていた連中がゴロゴロしていたから。
 こういう連中はルイセンコとか、ミチューリンをかついでいた連中と、おなじ顔をしていた。
 ついでに書いておく。私が見たい映画の1本は――アレクサンドル・P・ドブチェンコのドキュメンタリー、「ミチューリン」(1949年)。こんな映画に唯物論的な関心はまったくないが、旧ソヴィエト映画史的には興味がある。

 こんなゲテモノでもないかぎり、いまの私はもう舶来品を珍重する気もなくなった。