780

 森田 たまは、戦前から名随筆家として知られていたが、この程度の随筆家は、今の同人雑誌にいくらでも見つかるだろう。
 たとえば、「孤独の尊さ」という文章があった。日中戦争が始まる直前に書かれたらしいが、この随筆家か見つめた「孤独」はどういうものだったか。

    孤独ほど耐へ難いものはない。しかしまた孤独ほど尊いものはない。誰が太陽を二つ見たか、誰が月を二つ見たか。・・・一国の中に君主はいつも一人ときまってゐる。さすれば一家の中にただひとり生れいでた愛娘は、その親にとつて君主であり、月であり、太陽であると云つても過言ではないでありませう。一人娘はそれ程まで恵まれた星の下に生れてきてゐるのです。人知れぬなやみの多く深きこと、また当然としなくてはなりますまい。

 これが書き出し。あきれた。こんなぞろっぺぇな文章を書いて名随筆家なのか。本人が名随筆家気どりだったのだから、始末にわるい。

 森田 たまはつづける。

      ながき夜の灯に結ぶ丁字の
      燭涙となりたまるを見れば
      今はた知りぬ世のことはりを
      時めける人うれひしげしと

    これは佐藤春夫先生の著はされました車塵集の中にある訳詩で、原句は「夜半燈花落、液涙満銅荷、乃知消息理、栄華憂患多」といふのですが、まことにこの詩のとほり、世にすぐれ持てはやされてゐる人ほど、それに比例してなやみも又多いものと思はねばなりませぬ。森の中にぬきんでた樹は風あたりが強いやうに、美しく生まれた人に哀話が多いやうに、一人娘もまた人から羨まれる境涯であるだけにかへって、ひそやかな憂ひの涙に、かはかぬ袖の又しても沽れることが多いでありませう。

 森田 たまを読みながら、ふと、梶井 基次郎の短編、「冬の蠅」を思い出した。
 自分の人生の「先がどうなるか」まったくわからない。ほんとうに『お先まっ暗』な若者が、よぼよぼと歩いている蠅、指を近づけても逃げない蠅をじっと見ている。この梶井 基次郎に、私はいいようのない孤独を読む。
 梶井 基次郎の文章には森田 たまなどが、ついに知ることのなかった孤独が吹き荒れている。
 こうした無間地獄のような孤独と、森田 たまの「孤独」などはまったく別のものだろう。

 「孤独の尊さ」だと。冗談じゃねえや。