えーと、中田でございます。年の瀬も、はるか遠くになりにけりで、みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
さて、今回、春頭スペシャル、ボツ特集ということで。あるんですよ、これが。やたら小むずかしいことを書いたやつ。あまりのくだらなさに、放り出しちまったやつ。捨ててしまえばいいのに、今日は書くことがないものだから、ワン・ポイント・リリーフ。
戦後、もともと由緒ある地名がずいぶんと消えてしまいましたナ。
東京の地名が変えられたことを哀惜してもはじまらない。私はとっくの昔にあきらめてます。
「江戸ッ子はあきらめに住するものなり」と、芥川 龍之介もおっしゃってます。
あぁた、いいコトいうねえ。
東京をぐるりと囲んでいる環状線が山手線。
東京から北まわりに、神田、上野、日暮里、大塚から池袋。ここらあたりから、南にむかって新宿、渋谷。
若い人たちのメッカ。なんのメッカか、ってーと、プリクラから、クレープ、ブルセラ、何でもそろってるって。
東京から南まわりなら、有楽町、新橋、品川。ここから、五反田、大崎。目黒とくれば、渋谷はもうすぐ。
若い頃から、一度はこの環状線、山手線でぐるぐるまわってみたい、と思ってきましたが、一度もやったことがない。なぜって。
これには、深ーいわけがあるんザマス。
戦後、「やまてせん」と呼ばれるようになっちまった。ヤだね。「やまてせん」だってサ。どこのどいつが、こんないいかたに変えやがったんでェ。私(あちし)は、ヤだね。誰が「やまてせん」なんぞというものか。「やまのてせん」といいますナ。
「のて」ということばもなくなりましたネ。ついでに「まち」ってことばも。
「のて」も「まち」もなくなっちまって、どこに行けばいいんだヨ。
芥川 龍之介先生、堀 辰雄先生、先輩の植草 甚一先生なぞは、なんてったって「まちッ子」だい。私(やつがれ)と同年代の作家の北 杜夫あにさん、批評家の奥野 健男兄貴あたりは「のてッ子」て。おいらとは、氏も育ちもちがってましたネ。
ただし、芥川 龍之介先生は、
僕は先天的にも後天的にも江戸ッ児の資格を失いたる、東京育ちの書生なり。
といってましたナ。
オイラなんざ、たまたま東京の片隅に生まれたってェだけで、ものごころついてから千葉に移り住んだのだから、とっくに江戸ッ子の資格を失った、千葉のボテフリみてェなものってことになる。
それでよござんすヨ。ただし、くたばるまで「やまてせん」とはいわねえ。「やまのてせん」といいつづけやしょう。
うまれついてのあまのじゃく、一度きめたらテコでもボウでも動かねえ。
ヤボがうりもので。イヒヒヒ。