子どもたちが書く詩には、ときどき驚くようなきらめきがある。
クラスのみんなをおかま中につめた
ガギュツ、ガギュツ、音がした
もうじきむさるころだ
ふたをあけてみよう
みんなをかまの中からだした
みんな真っ赤だ
魚屋へ せいぼのかわりに
むし人間を三六人やった
魚屋のおばさんは
それを店に出した
「むし人間」 小五 石川 せき子
この詩が発表されると、生活詩を指導する教師たちから、はげしい非難が起きたらしい。「生活綴り方」を信奉する教師たちは、想像力を重視すると、こういう残酷な妄想を生む、といって批判した。
私はこの詩を少しも非難しない。リアリズムの信奉者たちは、子どもが自分の身辺を詩にする生活詩などというものに、いわゆる「子どもらしさ」などを見ているらしい。そもそもこれを妄想などと見るほうがおかしい。この詩を不健康なものと見るほうが、よほど不健康なのだ。
むしろ、あまりに子どもらしい、それこそげんなりするくらいに子どもの感覚を表現している、というべきだろう。
教師たちが「生活綴り方」を指導するのはけっこうだが、そんな作文に、子どもの悲しみや、うまくことばにならない孤独感、おとなの常識では妄想と見えるような奇想があらわれるはずはない。その先生の気に入るような平凡な「綴り方」があきもせず書かれるだけのことだ。豊田 正子や、金 達寿の綴り方が、どれほどユニークなものだったか、考えてみるがいい。
この小学生の別の詩をあげてみよう。
ジュースをのんでいた
うしろからバリバリ音がした
春がせんべいになっていた
夏がひきさいてたべていた
たすけてさんはこなかった
春はたすけてさん をにくんだ
たすけてさんとは遊ばない
春はおこっていった
たすけてさんは夏と遊んだ
夏は春にも遊ぼうといった
でも春はおこって行った
たすけてさんは春も夏も
いっしょに遊ぶといいと思った
「夏と春」 小六 石川 せき子
じつにおもしろい。
こうした詩は矢口先生のクラスから生まれてきたという。矢口先生がどういう先生なのか知らない。「すこやかな子どもはすこやかな詩を書く」などという旧態依然たる子ども観で指導される「生活詩」などは、実際に現実をとらえるのではなく、ほんらい子どもたちの生活や内面にひそんでいる色彩や輝きを消し去った、詩と称する、非詩的なものを、あきもせずに生産しているにすぎない。
そんなものは、生活にも、子どもという人間存在にもかかわりがなく、日常の具体性のしがらみにからめとられているにすぎない。
キラキラが光っている
ザブザブのなみにのって光っている
魚がキラキラをのんだ
太陽がよびにきた
キラキラの赤ちゃんははいあがって
おかあさんのところへ帰っていった
口の中へはいったキラキラは
うろこになって
光っていた
「うろこ」 小五 石川 せき子
せき子ちゃんがこれからも詩を書くかどうかわからない。しかし、この子の詩を読んだときの喜びを、私は心のなかにしまっておきたい。
*引用は「詩的認識と散文的認識」 駒瀬 銑吾/「宇宙詩人」7号による。