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とても刺激的なことばを見つけた。

   ホピというインデイアンの種族の言語は、英語とおなじくらい高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない。過去、現在、未来の区別が存在しないのだ。このことは時間について何を物語っているのだろう?

 ジャネット・ウィンターソンの『さくらんぼの性は』(岸本 佐知子訳)の、冒頭のエピグラム。この一節が眼に飛び込んできたとき、私はしばらく茫然とした。

 この一節をエピグラムにしたジャネット・ウィンターソンという作家に興味をもった。むろん、この作家を訳した岸本 佐知子にも感謝しなければならない。

 ホピというインデイアンの種族を知らない。その言語についても知らないので、たちまち私の考えはさまざまな方向に拡散して(行く、行った、行くであろう)・・
 この種族にも、おそらく口承の民話は(あった、ある、あるであろう)・・
 だが、ひとつのフレーズ、それにつづく別のフレーズ、それが聞き手のこころに届くときに、continium という詩神のまなざしは欠けてしまうのだろうか。

 ホピの男女が愛を語りあうとき、どうするのだろう。
 お互いに愛しあって、ふたりだけの小さな共同体をきづきあげようとする。
 そのあいだに、かならず誰かがいる。エロテイックなことは、すべてそのまなざしのなかで演じられる。しかし、時制がなければ、愛した、愛している、愛するだろうことが、どうやって認識するのだろう。

 恋人たちは愛する人のために歌うだろう。だが、この種族の歌唱はどうなるのか。(歌われた、歌われている、歌われるだろう)・・
 この種族はどういう土地に住んでいるのか。その土地になんらかの地名がつけられている場合、それが自分たちの支配する(親しみのある)土地の名辞であるとして、それは歴史という背景をもつものかどうか。ひいては、唄が民謡として成立(した、している、するだろう)・・か。

 高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない言語。
 過去、現在、未来の区別が存在しないのだから、当然、discontium もない。したがって、詩は存在しない。
 詩が存在しないということは、文学も存在しないということだろう。

 なんというすばらしい種族だろう!
 ことわるまでもないが、私は皮肉をいっているのではない。(笑)
 とにかく、すっかり気にいってしまった。

 ジャネット・ウィンターソンは、過去、現在、未来の区別が存在しないような書きかたをしているとさえ思える。むろん、時制がなければ書けるはずはないが、ときどき、この作家はインデイアンの種族から力をかりて、その純粋性、深遠さをたくみにパラフレーズしているのではないか、とさえ思える。
 こういう作品の魅力は、岸本 佐知子訳でなければ出せないだろう。