井上 篤夫が、イングリッド・バーグマンについて書いていた。(「週刊新潮」07.9.6日号)とてもいい記事だった。
「ある日、プールのベンチに腰かけていて涙があふれてきたことがあるの。何不自由のない暮らしなのに満たされない。胸が張り裂けそうでした。」
井上君は、バーグマンのことばを引用して、
「女優としてじつに3度のオスカーに輝いたバーグマン。そのバーグマンにして、そうした問いかけを胸の内で反芻していたという事実は、私の心を静かに打つ。」
このことばから私は別のことを想像した。
バーグマンは、スクリーンだけでなく、どこでも男の注意を一身にあつめる。ハリウッドでも、ローマでも、パリでも。
世界的なスターだから当然なのだが、彼女自身も、ある時期まではそういうことを楽しんでいたに違いない。なんのために? べつに目的があったわけでもないだろう。ほんの一瞬のよろこび、ほんの少しでも男性の関心を喚び起そうとする快楽。女優でなくても、たいていの女は、人生をつうじて、そうしたよろこびをいつも気にかけている。
だが、女優にはいつかかならず、そうしたことが許されなくなる時期がやってくる。いわば、自分の魅力が無残に自分自身を裏切るような瞬間が。
それこそがひどく孤独な瞬間として、立ちはだかってくる。プールのベンチに腰かけていなくても涙があふれてくるだろう。それは、ことばではつたえられないほどの孤独感だったに違いない。
きみはいくつなの、マリアンヌ? 十八歳? ひとに愛されるのはあと五、六年。きみがひとを愛するのは、八年か、十年。あとは神に祈るための年月……
これは、ミュッセの芝居に出てくる。
私は、マリリン・モンローが死ぬ十日前に、「ライフ」のインタヴューで語っていたことばを思い出す。
バーグマンもマリリンも、女としてのぎりぎりの声をあげていた。それを思うと、なぜか、いたましい。
むろん、女優でなくても、こうした瞬間は誰にでも訪れるかも知れない。しかし、ラッキーなことに女はたいていすぐに忘れる。