「キスリング展」を見る。
ずいぶん前に、ジュネーヴの「ブティ・パレ」で見た絵をもう一度見たいと思って。
これは「ブロンドの少年」(1937年)で、以前、ジュネーヴの「ブティ・パレ」で見た絵だった。濃いブルツシャン・ブルー、グリ、淡いコバルト・グリーンの縞模様のついたセーター。両手を腿のうえで交差させたポーズ。少年は少し頸をかしげて、どこか哀愁をたたえたまなざし。
日本でも、キスリングの代表作として知られている。この絵をもう一度見たいと思っていた。
戦時中、キスリングの小さな画集を見つけた。小型で、紙質のよくない画集だったが、そのなかに1枚のヌードの写真版があった。
若い女が、上半身をねじるようにして、ふくよかな臀部をこちらに見せて、ベッドに横たわっている。今回の「キスリング展」では見られないポーズで、私自身はこの絵をキスリングのヌードのなかでも最高の傑作と、勝手に信じている。
しかし、この絵はついに見ることができなかった。むろん、今回の「キスリング展」にも出品されていない。
キスリングのヌードのなかで、とくに傑出した2枚、「赤毛の女のヌード」(1949年)と「アルレッテイのヌード」(1933年)。これは、今回の「キスリング展」でも、その美しさからいってほかのヌードよりもさらにすぐれている。
女優、アルレッテイは、私たちには「天井桟敷の人々」の「ガランス」で知られているが、もともとブールヴァールの芝居の女優で、粋で、美貌のパリジェンヌとして人気があった。
キスリングは、女優、アルレッテイを愛していた。あの多情で、たくさんの男たちの心を奪い、しばらくすると、もうどこにも存在しない女を。
私がこの絵に見るものは――画家の内面にたゆたっている思いなのだ。女優、アルレッテイに対する名状しがたい思いが、この絵を描かせた。この絵の女優のまなざしには、あの creation のあとの、けだるさと、男に対するかすかな憐憫がひそんでいる。
もう1枚の「赤毛の女のヌード」(1949年)については、カタログの解説を、引用しておこう。
女性は官能的なしどけないポーズで、モデルお決まりのポーズではない。この作品は伝統的な絵画に匹敵する大きさを持つが、実際そこに描かれる図象は当時の大衆雑誌のようなものだ。
(ここで、解説者は、大衆雑誌に掲載された写真を使ったピカビアをひきあいに出しながら)
キスリングは新人スターや挑発的なポーズを取る若い女性の写真をアトリエの壁に貼った。キスリングの一部の作品はそれらの写しであるが、単に写真のイメージに絵画の力や広がりを与えるだけでなく、モデルのポーズも大胆にさせていた。
しかしながらこの大胆さは、古典絵画のように背景に配置された低いテーブル上の皿の上の果物(桃や葡萄)などによって幾分和らげられている。
という。カタログの解説にしても美術の研究者の書くものはどうしてこんなにつまらないのだろう。
これも、キスリングらしいポーズだが、この程度に官能的なしどけないポーズなら、ヴァン・ドンゲンや、ジュール・パスキンにいくらでも見つかる。キスリングはモデルのポーズをことさら大胆にさせてはいないだろう。まして、彼が描いたヌードは、当時の大衆雑誌に出ているようなものではない。
「赤毛の女のヌード」もまた、キスリングにとっては、creation のあとの「ニルヴァーナ」ではなかったか。その証拠に、女が頭を上にしている織物の渦巻きは、あきらかに女のヴァジャイナを象徴化しているのだ。
キスリングは新人スターや挑発的なポーズを取る若い女性の写真をアトリエの壁に貼った、という。別に驚くほどのことではない。
ピカソは、日本の舞妓の写真をヴァローリスのアトリエに並べていた。(これは、私自身が実見している。)ピカソや、モジリアーニや、キスリングのようにエロティックな芸術家にとって、「新人スターや挑発的なポーズを取る若い女性の写真をアトリエの壁に貼る」のは、いってみれば songears villants (醒めた夢想)であり、つかのまのエクスタシーを約束するだけなのだ。