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 テレビで、マンガ家のやなせ たかしが話していた。
 当時、中国戦線に配属されていたらしい。
 「戦争でつらかったのは、飢えたことだった。何も食べるものがありませんでした。つらい日々でしたね。」(07/7/6 NHK1 9:20am)

 1945年。私は学徒動員で川崎の石油工場にいた。3月の大空襲で本所で罹災し、まったく無一物になったあと、5月に渋谷でまた焼け出された。空襲の翌日、母は食料を確保するために栃木県に疎開した知人をたよって那須に行った。当時、渋谷の女学校に通っていた妹は埼玉に疎開した祖母にあずけられた。学業をつづけるために田舎の女学校に転校した。
 私の一家は、この空襲で、わずかな家財道具もすべて失って、ついに離散したのだった。

 父、昌夫と私は、当時の渋谷区の斡旋で、沼袋に移った。緊急に罹災者の宿泊場所が割り当てられて、私たちにあてがわれたのは、海軍の将官の屋敷の女中部屋だった。
 六畳間だったが、渋谷か三軒茶屋あたりで焼け出された家族と同居することになった。この人たちも着のみ着のままで逃げた母娘ふたりだった。
 母親は上品な初老の婦人だった。娘は私より年上で、はたちか二十一、徴用の女子挺身隊で丸の内かどこかに通っていた。私は17歳。中学を卒業せずに、明治の文科に進んだので、いちおう大学生だった。
 よそめには、まるで4人家族がそろって暮らしているように見えたかも知れない。

 同居している母娘は、私たちの帰りを待ってから、遅い夜食をとるようにしていた。これにも理由があった。3人がそれぞれ職場に出て行くのだから、昼間この部屋にいるのは老女だけなので、私たちの配給物資もいっしょに受けとってくれた。
 配給といっても、絶対量がきょくたんに少ない。なにしろほんの一升程度の大豆が、配給されるだけだった。私たちが帰宅してから、それをきっちり二等分する。
 つまり、少しでも不正に見られるのがいやだったらしい。
 老女が私たちにそこまで気を使わなければならなかったのは、食料の多い少ないでみにくい争いが起きるからだった。
 食事といっても、大豆を老女がゆでたものが、丼にはんぶんばかり。一滴の醤油もなかった。かすかに塩味がついていた。
 四人そろって、無灯火の、暗い闇のなかで小さなテーブルを囲む。お互いにほとんど話題はなかった。食事あと、お茶の一杯も出なかった。
 毎晩、敵機の来襲が知らされて、防空壕もない屋敷で、知らない他人どうし、父子、母娘が息を殺すようにして過ごす時間はつらいものだった。
 戦争でつらかったのは、飢えたことだった。何も食べるものがなかった。つらい日々だった。