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教室にきている人たちの写真を撮る。ただのスナップショット。
 写真はつぎに会ったときに進呈する。ただのスナップなので、ありがたみはない。撮られた本人としては記念写真にさえもならない。

 やがて時間がたって、アルバムの片隅にそんな写真を眼にしたとき、その頃のことを誰も思い出さないだろう。私のことも思い出すかどうか。

 しかし、私はそういう写真を撮ってはみんなにわたしてやる。趣味といってもいいのだが、自分では勝手に理由をつけている。

 戦時中、勤労動員で川崎の工場で働いていた。大学の授業はない。それでは可哀そうだというので、山本 有三、小林 秀雄が、わざわざ工場まできて講義をしてくれた。
 講義といっても質疑応答のようなもので、学生が何か質問すれば、先生が答えてくれるのだった。

 学生のひとり(むろん、私ではない)が、小林 秀雄に質問した。

 小説を書きたいのですが、小説を書く秘訣のようなものはあるのでしょうか。

 小林 秀雄は、どんな幼稚な質問を受けてもすぐに考えて答えてくれた。このときの答えは私の心に深く残った。いろいろ答えてくれたが、その一つ――あるイメージをいつでも心のなかによみがえらせる能力が必要だという意味のことを語った。(正確に小林 秀雄のことばを思い出しているわけではない。ここでは、私が彼のことばをどう受けとったか、ということになる。)
 こう語ったことは間違いない。
 暗闇のなかで、火のついたお線香をぐるぐるまわすと、まるい残像が眼に見える。あれとおなじことだ。自分の描こうとする人物が、いつでもいきいきと心に思いうかぶ。そういうことを作家は、倦むことのない鍛練で身につけてゆく。それは方法などではない。

 小林 秀雄が火のついたお線香と残像という比喩を使ったことをおぼえている。
 後年の私はこのことばを自分流にいろいろとパラフレーズして行く。

 はるか歳月をへだてて、私は自分のクラスにきている人たちのスナップ写真をとりはじめた。
 そんな写真になんの意味もない。しかし、時間がたって茶色に変色した写真の一枚を見たとき、彼女はそんなものから、ふと何か思い出すかも知れない。そこに写っているのは、教室や街路、近くの公園といったとりとめもないヒトコマだが、もしかすると、それは思いがけない残像を喚び起こすかも知れない。

 ただのスナップなので、撮られた本人にとっては記念写真にさえもならない。それを承知で私は写真を撮ってはみんなにわたしてやる。