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 島崎 藤村の『夜明け前』の出版の祝賀会があったとき、そうそうたる出席者が祝辞を述べた。
 そうした人々のスピーチが終わって、藤村が謝辞を述べた。

    藤村は感慨に耽り込んだやうな、そのために少しぼんやりしたやうな顔付きで静かに立上がり、暫くうつむき加減に黙って立ってゐたが、やがて顔をもたげ、太い眉をきりりと上げて、そしてゆったりした口調でかう云ったのである。
    「わたしは皆さんがもっとほんたうの事を云って下さると思ってゐましたが、どなたもほんたうの事を云って下さらない……」
    そのまま又眼を伏せて暫く黙ってしまった。――人々は粛然と静まり返った。
 広津 和郎が書いている。

 藤村はつづけて――今日までやっとのことでたどってきた。自分でも、よくここまでやってこられたと思っている。さっき、徳田(秋声)君は、『暫く休息したら、又次の仕事にかかってもらいたい』といってくれましたけれども……いいえ、どうしてどうして、わたしはけっしてそんな鋼鉄のような人間ではありません。私はもうへとへとに疲れ切っています。わたしは、ゆっくり休みたいと思います、といった。

 私はこのときの藤村を想像して感動した。同時に、こうしたことを書き残してくれた広津 和郎に感謝したい気がした。
 ただし、すぐつづいての感想はもう少し違ったものだったが。

 『夜明け前』は、藤村一代の傑作である。昭和前期を代表する作品といっていい。それほどの作品の出版の祝賀の席で何がいえるだろうか。
 私は島崎 藤村の高潔さ、誠実に打たれながら、心のどこかで、ほんまにヤボなおひとやなあ、と舌打ちしたくなった。

 徳田 秋声が、「暫く休息したら、又次の仕事にかかってもらいたい」といったのは、友人としての心からのねぎらいだったに違いない。
 いずれ名だたる文士の集まる出版記念会の雰囲気で、「どなたもほんたうの事を云って下さらない」のは当然といってよい。まして『夜明け前』ほどの作者を前に何ほどのことがいえようか。
 まともな作品論を開陳したところで、それこそ誰も聞いてやしないだろう。
 そんな出版記念会で、心から祝辞を述べても主賓に「ほんたうの事を云って」ないと思われるのはたまらないだろう。
 作家がほんとうに「もうへとへとに疲れ切っている」とき、どんなことばも慰めにはならないのだ。
 私は島崎 藤村の誠実に打たれながら、「ヤボな」作家だと思っている。

 作者としてはそんな祝賀会のあと、ほんの数人の「仲間」と心おきなく杯をあげ、酒をくみかわしたほうがよほどうれしいだろう。
 藤村にはそうした「仲間」がいなかったのではないか。
  (つづく)