江戸中期の俳人、横井 也有(1702~83)は、いつも各務 支考(1665~1731)を批判しつづけた。
彼の俳論を読むと、支考のことが徹底的に気に入らなかったらしい。
性格的に粘液質というか、オブセッシヴなタイプ。固着的で、頑固な批評家らしい。こういう人が論敵になったら、こわいね。
也有さんは支考の俳論『続五論』(元禄12年)をほめそやしながら、『俳諧十論』(享保4年)を痛烈にこきおろしている。支考の実作についても、
蓮二房(支考)の俳諧は名人なり。天下無双といふのみならず古今に独歩すともいうべし。
と手放しでほめていながら、批評はただちに反転して、
老後世法の偽作はいかなる天魔の入かはりたりや。おしむべし、嘆くべし。
と非難している。「偽作」は盗作の意味ではなく誤った論旨の批評という意味。
もっとも私にいわせれば、也有の批評上の論点にどうも誤解があるように見える。
享保以後の支考の「文体」も大きく変化したらしい。これが也有には、師の芭蕉の教えから大きく離脱したように見えた。あるいは、路通、許六の逃亡に通じると見たのか。
されば蓮二はよし。蓮二をまねぶはあしからむ。
おもしろい。私のような平凡な批評家には真似しようもないが――批評上のダィアレクティックスとしておぼえておこう。
さればピカソはよし。ピカソをまねぶはあしからむ。
さればスタニスラスキーはよし。スタニスラスキーをまねぶはあしからむ。
されば小林 秀雄はよし。小林 秀雄をまねぶはあしからむ。
さればフーコーはよし。フーコーをまねぶはあしからむ。
すごいね。批評として難攻不落の論理だよ、也有さん。
(つづく)