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 BS11、「ティファニーで朝食を」をやっていた。(07/6/1)もう、何度も見ている映画だが、見ているうちに、いろいろなことを考えた。
 後年のトルーマン・カポーテイは『冷血』を書く。当時、NHKで『冷血』をとりあげたことがあって、出席者は、武田 泰淳、中村 光夫、開高 健、司会は私だった。
 当然、この座談会のテーマは、およそ、カポーテイのような作家には考えられない主題だったので、なぜこういうノン・フィクションを書いたのか、というあたりに集中した。このなかで、中村 光夫が私に嘲笑的な言辞を浴びせた。私は、このときから、中村 光夫を文学上の敵として意識するようになった。
 私は論争を好まない。文壇仲間の確執などに興味はない。しかし、トルーマン・カポーテイがきっかけで、それ以後、中村 光夫の書くものに侮蔑の眼を向けたのだった。

 「ティファニーで朝食を」の主演女優は、オードリー・ヘップバーンだった。むろん、オードリーは可憐で、とてもいい女優だった。しかし、この映画のコールガールは、「娘役」(ジュンヌ・プルミエール)としてのオードリーに向かなかった、と私は思う。
 じつは、カポーテイ自身はマリリン・モンローを希望していたのだった。
 私のいう「マリリン」は「人生模様」に出たマリリン・モンローで、「ナイヤガラ」のマリリン、「七年目の浮気」のマリリンではない。このあたりは説明がむずかしいのだが、ふたりの演技、キャラクターから見て、オードリーでは無理だったと見る。
 たとえば、ソヴィエト映画の「戦争と平和」のナターシャ・サベリエヴァと比較しても、オードリーのほうがもっとすばらしかった、と思う。おなじ「戦争と平和」でアニタ・エクバーグがどんなに殊勝に演じていても、「8 1/2」ののびやかなエグバーグにおよばなかったように。
 結果として、「ティファニーで朝食を」は、世間の評価と違って、オードリーの代表作とまではいかなかった、と思う。

 映画俳優のトム・ハンクスがいっていた。

 「カサブランカ」のなかで、イングリッド・バーグマンは、酒場で黒人のひくピアノを黙って聞いている。それだけで、バーグマンはひと(観客)を魅了する。役者にはそれだけの力がある、と。

 「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘツブバーンにはそういうシーンがない、と私は見た。だいいちコールガールに見えない。
 私はいつも大方のみなさんの意見とは違ってしまうせいか。